いまの苦しみや現実から逃れるために自殺という行為を行なうわけですが、自分の心身ともに消えてなくなるわけではないので苦しみから解放されることはありません。なぜ苦しみから解放されないのかという理由を説明させていただきます。

 

はじめに

自死を選択する人のなかには、「自殺したら全て無になると思ってられる人もいるかもしれませんが、死んでも全て無くなってしまうことはありません。

それは霊能者や霊的な経験をしていないとわからないだけでなく、死後の世界について何百年何千年といった歴史が覆ることがなく現在に続いていることからも証明できる事実です。

話しは逸れますが、なぜ霊が視えない人が多いのかといいますと、生まれながらに霊能力が発達している人が少ないということにあります。

誰でも霊能力というものを持ち合わせていますが、過去世で訓練した人は死後も能力を持ち合わせているので再生したときに持ち越してくるわけです。

これは霊能力に限らず、生まれながらに天性の才能を持ち合わせているというのも過去世から持ち合わせたものが今世で発揮できているに過ぎないのです。

それゆえに神仏や霊の存在が視えないために死後の世界はないものと思うかもしれませんが、現実はそういった能力を多くの人間が持ち合わせていないだけということです。

目に見えるものしか信じることが出来ない人間にとって、死後の世界や自分の死んだあとは消えると思っても仕方のないことです。

しかし死後の世界というものが現実的にあるために、いまの人間的な感覚だけで物事を判断してしまうために間違った行動をとりやすいことがあります。

それでは、下記にて説明させていただきます。

 

死とは、本当はどういうものなのか

一言で申しますと、肉体を脱ぎ捨てて霊の世界に帰るだけのものです。

死後の意識は生前のままを引き継ぐわけですから、最初は変な感覚に襲われることになるかもしれませんが、個人差はあっても比較的スグに状況は把握できていくと思います。

私の経験上でも、恐ろしい数の死後間もない人たちが集まって来ていたものです。

死の最初は地上付近にいることが普通にありますが、一部を除いてその多くは次の新天地みたいなところに身を置くことになります。

どういった場所かというと地球とよく似た場所で、まさかと思うほど死ぬことは恐怖でもなければ、魂が浮遊しているものでもない世界ということに気付かされます。

何とか天命を全うした魂の多くは生前よりも格段に良い世界が待ち受けていて、生老病死もなければ醜い争いや心の汚れた人たちが居ない(居ても見透かされてしまい去っていく)ところなので、人間の世界からしますと天国といわれる所以です。

当然ですが、お金に苦しむこともなければ欲しいものを我慢することをしなくても何でも手に入りますし、食事も旅行も思いのままだったりします。

私の記事で霊は肉体がないので物を食べないというのがありますが、これは人間の世界(地上界)を基準に書いていますが、霊の世界では少し状況が異なるため感覚が全く違うものになり、人間の世界のような物質としては食べないということです。

死後の世界では、地位や名誉も然り霊個人が権力を持つことも無ければ、暴力や争いごとは平穏な世界にいることから各々の心が満たされるために起きることがありません。

もしイレギュラーなものが居ても、同じ階層には長く身を置くことが出来ないので、過ごしにくい地上に近いような場所に落とされたり好んで同類がいる場所へ去っていくような感じになります。

悪しき同じようなものたちが蠢く場所に集まっていったものが、死後も生前の如く同類ばかりの集まりのなかで終始争っていたりします。例えば暴力的な人は霊の世界でも同類と絶えず喧嘩をしたり殺し合ったり、ののしり合ったりの愚行を繰り返します。

そのほかに自死や何らかの強い未練や執着を持って亡くなると、地上と新天地の境(どっちつかず)に身を置いたり地上に留まることになってしまいます。

それは地上という生活での観念が抜けきれないために、次なるステップに行けないために起こります。例えば思念であったり感情であったり何らかの生前のものが投影されてしまうためです)

ということで、なんとか苦しくても自殺せずに乗り越えていけば、ご褒美のように安寧な世界に人間として地上にいてた時の何倍何十倍もの期間を過ごすことが出来ます。それが死後の世界であり霊の実質的な世界というものです。

 

自殺しても解放されない理由

死ぬということは肉体がなくなることなので、いま纏っている肉体から解放されます。

自殺も同様に肉体からは解放されますが、生前のままの意識や感覚は如何なる死に方をしても同じように続きます。

よくある話ですが、自殺した人が自分の死んだことを気付かなくて(意識や感覚が生前のままのため)何度も自殺を繰り返していたりすることは普通にあります。

先日も関西のJRの駅のホームで、とんでもない違和感のある箇所があったのですが自殺霊がいてたようです。たまに波長があった人に引き寄せられて関係のない人を巻き込んでしまうことがあるのも事実でとしてあります。

それほど死とは、自覚するまで本当に死んだのって思える状態になります。

何十年何百年経ったとしても、霊の世界にいる間は話し方も性格的なものも大きく変わらず生前の自分を引き継ぎます。

こうしたことから、自然死であろうと自殺であろうと消えてなくなるどころか身体の状態が違うだけで記憶なども鮮明なままといえます。

人間というのは肉体がすべてのように解釈しがちですが、本当は霊の世界から持ち合わせている霊体というものを感じないだけで持ち合わせているものです。

例えが適切ではないかもしれませんが、着ぐるみのなかにいる自分に気付いていないだけで着ぐるみを脱いでも本当の自分が出てくるだけなのが死です。

つまり本体は健在なままを維持しますが、厄介なのは地上での感覚が抜けないことで視野が狭くなったまま固執してしまうと、何十年何百年も地上に縛られてしまいます。

これが一般的な自殺をしたものや無念の死を遂げたものたちの流れです。

深く悩みを持っている人や悲しみに暮れている人を諭すことが容易ではないことに分かるように、死んで霊になっても自分のなかで解決しないことには何も始まらないわけです。

嫌な人から逃げるために死を選択しても、思念は通ずることから思い出すと嫌な人の近くに行ってしまったり思い出したり、なかなかうまく消化できない状況が続いていきます。

生活や仕事などの苦しみから、踏ん張ったけど限界と感じて死を選択したとしても相変わらず、それに悩み続ける自分がいることも事実です。

もっと死後の状態や様相が違えば楽なのかもしれませんが、残念ながら生前と変わらない状態の延長なために抜け出せないことになってしまいます。

ほかにもありますが、みんな走馬灯のように良いことも嫌なことも繰り返し思い出してしまうということも苦しみから解放されない一因となります。

こうしたことから、自殺しても解放されないというのが根本的な理由です。

 

さいごに

私は波乱万丈な人生を歩んできていることから利他愛以外には、この世に自分の夢や希望なんてないと断言できるのですが、死なないのは霊の世界のことを少しでも理解しているためです。

どういったらいいのか。。。肉体を纏っている僅かな期間に一喜一憂したところで、所詮は霊の世界から厳しい境遇を体験してきている一時的な場所でしかないというのでしょうか。

誰もが何れは死にますし当然のように明日も生きているとは限らないのですが、不思議とその辺は死にたくても普通に生きているという意識もおかしなものです。

本当は地上で満足や幸せを見つけるためではなくて、不幸を乗り越えるために生まれてきているので後者が普通と思って間違いないんですがね。

私たち人間は生まれて来て、角張った石が今世での荒波を乗り越えていくことで丸くなるために様々な境遇を迎えて帰っていくものです。

 

それでは、この辺で終わります。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました<(_ _)>