神仏に関すること

神仏は正しい考え方に呼応するもの

スピリチュアルの情報には、自分の欲や願望を叶えるごとく神仏が存在しているといった説明をしているものを多く散見しますが、神仏は厳しくも慈悲深い存在であり正しい考え方に呼応していただけるものです。

 

神仏とは人々の成長のために必要な気づきや導きをいただける存在です。

 

スピリチュアルの情報には何故か誤った(浅い?)発信をするものが多く、とても残念に感じますが、それも人々の今の心境を物語っていて発信する人も読む人も同じ目線であることは仕方のないことと感じます。

 

吹き出しに神仏のことを赤字で記していますが、気づきや導きのほかにも邪といった霊的なものや人の念など可能なものは対処していただけます。

 

しかし本当は霊の憑依や霊障また生霊といったものも、各々の霊感の度合いと同じで気づかない人にとっては気にならないものだったりするものです。

 

 

話を戻しまして、神仏が正しい考え方に呼応してくださるというのは私の経験からきている部分もありますが、神仏との何らかの御縁(過去世や先祖親族の信仰など)があった方が叶いやすいのは事実ですが、正しい考え方で一心に願えば御加護をいただける存在であるということです。

 

例えば、大切な人の疾病を治してもらおうと祈願する人がいくら正しい考えで拝んだとしても、病に罹っている人が不純不徳な考えの人では叶うものも叶うわけがないのです。

 

しかし、大病を患ったことにより自己の人生を改めるきっかけになるのであれば話は別なものになります。

 

ではどうすれば良いのかではなく、人には宿命があり変えることができないものもありますが、基本はその人がこの世で人の役に立てる存在になれるか否かが関係してきます。

 

宿命を迎えた人が一年二年と延命出来ることが稀でも現実にあり、こうしたことも神仏の御加護がなければあり得ないことになります。

 

 

一般の祈願で言えば、『人事を尽くして祈願する』ことは叶いやすくなることも然りですが、それよりも祈願する人が正しい考えで『自分の力量ではどうも越えられそうにない』といったことや『悩みや苦しみから解放されるための導き』を問うてみたり他力本願的ではないといったことが必要です。

 

当ブログでは、スピリチュアル界に蔓延している他力本願的な神仏は便利屋の如く人間の欲や望みを叶える便利屋のような存在ではないと自信をもって断言致します。

 

このようなことは正しい考えをもった人であれば当たり前に理解できるもので説明をすることでもありませんが、神仏に祈願祈祷して叶わないことが多いのはこうした曖昧な情報があるためです。

 

そのほかにも、まだ自力で頑張らないといけないか踏ん張らないといけないような場合も叶わないということもあります。

 

 

ここからは大まかなことを書いていきますが、如来様や菩薩様といったクラスは僧侶や行者であっても生涯において存在すら感じなかったり存在自体を疑ってしまいかねない存在だったりします。

 

祈願や祈祷して何も反応を感じないからダメだというわけではありませんが、階層が上になればなるほど答えをいただける時間が長くなりやすいように感じます。

 

もちろん、祈願や祈祷の内容にもよりますが。。。。

 

私も実際に如来様に『拝みたければ拝むがよい。。。真言は伝わっておる』といわれたことがあります。

 

そのときは、正直なところ『えっ???』となったものですが、当然といえば当然のお答えで、真言が届いていると教えていただいただけでも有り難いと思っています。

 

だからでしょうか・・・昔の人は稲荷神などの天部尊を拝む人が多かったとも感じます。

 

天部尊といえば、『天』のつく仏様でありますが神様扱いになっています。

 

色々と書きましたが、祈願や祈祷に関しては自分が何となくでも拝もうと決めた神仏でよくて、階層やご利益を重視するのではなく、ふと足を運ぶとかネットや本で何となく感じた神仏を拝めばよいのです。

 

縁ならば、必ず神仏からの呼応があっての参拝につながるからです。

 

 

ということで、この辺で終わります。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。m(_ _)m

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