神仏に祈願しても叶わないという人も少なくないと思うのですが、祈願の内容そのものに問題があったり祈願しても叶わない理由というものがあります。そこで神仏祈願について現実的な説明をさせていただきます。
はじめに
前回の記事で少し触れましたが、神仏というのはお願いすれば願い事を叶えてくれるような都合の良い便利な存在ではありません。
現実社会に置き換えても言えることですが、そんなに仲良くもない他人に何か大切なことをお願いして聞き入れてくれるか否かを考えていただければ分かりやすいと思います。
たまに見受けられるのが、神仏を一生懸命に信心(信仰して祈る)しているから祈願は叶いやすいと誤解されている節もありますが、たしかに信心していない人よりかは神仏と身近な存在になっていることは確かなものですが、叶わないものには理由があるのです。
余談になりますが、神仏を信仰しているからといって姿や気配などがわからないということで存在自体を疑ってしまいがちですが、これも人によっては神仏の存在の意義を理解されることが先決なものと考えます。
まず神仏というのは慈悲深く厳しい存在であるということを知るべきです。
慈悲深いというのは。。。情に深く人を憐れむ(=かわいそうに思う)気持ちが深いことを意味します。
このようなことから慈悲深いから安請け合いしてくれるものではなくて、しっかりとその人の将来をご判断されて叶えてくれるのです。
それでは、祈願しても叶えてもらえないものについて〈例〉をまじえながら説明していきます。
宿命は祈願しても叶わない
宿命を簡単にいうと、人の一生のなかで避けることも変えることもできない運命的なものを意味します。
宿命的な祈願のなかでもよくあるのが、大切な人や愛する人が病気や事故で死の淵にたってしまっているときなどに宿命(寿命)が絡んでいると、神仏であってもどうすることも出来ないのです。
人の死における宿命というのは、過去世から当人が決めて生まれて来ているので、その絶対的な決まりごとを誰とて破るわけにはいかないということがあります。
それを神仏に祈願しても叶わなかったという思いをもつことは祈願された神仏も悲しまれるので、できれば神仏の責任にしないでいただきたいものです。
なかには神仏に祈願して延命に成功したという話もあると思いますが、それは祈願したことが叶ったのではなく、もとからそのような宿命であったということに過ぎません。
そのほかにも限定的に生存期間の延長といった例外もありますが、それは当人が延命することに意味があるものに限られ、ごく稀なケースといえるでしょう。
この項では人の死について説明しましたが、宿命は神仏に祈願しても叶えられないということをご理解下さい。
利己的な祈願は叶わない
利己的とは、自分の利益だけを追求しようとするもので、簡単にいいますと神仏祈願というものを「打出の小槌」の如く勘違いされていることをいいます。
沢山お金が入ってきますようにとか儲かりますようとか、お金持ちになりますようにといった祈願というのは、暗にそれだけの理由で祈願は叶いません。
しかし、たくさんお金が入ってくることで他人や従業員などに少しでも多く還元したり、世のため人のためになるような望みがある場合などは祈願が叶いやすくなります。
人によっては、儲かることで家族や親族にいい生活をさせたいという願いもあるでしょうが、それが叶うか否かは微妙としかいえません。
なぜならば家族や親族が飢えに苦しんでいたり人並みに生活ができないで困っていたら手を差し伸べてもらえるかもしれませんが、余裕ある生活のためには叶える理由がないからです。
ここで注意していただきたいのは、利己的な考えや思いで祈願したことが叶ったりするようなときは、将来に不運的なことが起きる可能性を秘めているということを念頭に気を付けて過ごすべきです。
このようなことは神仏の考え方の基本であって、人生の落差を経験させることによって気付きを与えてくれることもあります。
熱意がないと祈願は叶わない
神社やお寺に行かれて祈願をすることもあると思いますが、それが観光で立ち寄ったものなのか祈願が目的なのかということでも熱意には違いがあるというものです。
神仏に祈願するということは、一度の祈願で叶うとは限らないので何回も祈願するといったことも必要な場合があります。
人間の社会でも同じことで内容にもよりますが、一度で願いが叶う時と何回もお願いして叶う時があるようなものです。
身近なものですと、異性との交際や仕事の受注・入学試験といったように一度で叶わないものは世の中にたくさんあるのと同じことがいえるのです。
当然に祈願する内容が神仏が聞き入れてくれるものか否かということがありますが、どうしても叶えて欲しいという時は熱意をもって幾度も祈願すべしです。
私は基本的に神社仏閣に行っても祈願することはなく、感謝といったお礼を述べるだけで済ませます。
以前のように霊障に困っている素人みたいな時期は、何とかして霊障をおさえて欲しいといった願いから様々なお寺に行っていたこともありました。
そのときに不思議なことといえば、初めて行ったお寺で仏様に手を合わして祈願し二度目に行った時に霊障のことを住職さんに相談したら、これを使えばよいと数珠を頂き適切な助言をいただいたことで霊障から救われたことがありました。
いまも、その数珠は大切に使わせていただいていますし、仏様や住職様へのご恩は数年経った今でも忘れていません。
藁にも縋る思いというのは、祈願すれば叶えていただけることに繋がるのです。
私の話はどうでもよいことなので話を戻しますと、祈願というのは一度で叶うとは限らないものであるということ、熱意がないと伝わらないと叶いにくいということがあります。
スピリチュアルな界隈では、神様や仏様が留守の時には願いが叶わないようなことが一説にあるようですが、まったく留守になることはなく眷属様などのお仕えの方がおられるので一心に祈願して大丈夫です。
感謝の心がないと叶いにくい
奈良の生駒山に「宝山寺」があり聖天様を祀っている通称「生駒の聖天さん」というお寺は、御利益を叶えてくれることで有名な寺院ですが、お寺へ向かう道中の石碑?にはたくさんの寄付した人の名前が彫られたものを目にします。
その寄付の額も一桁違って一億円なんてザラといった様相です。
これも御利益を授かって御礼を寄付する形で表しているように、祈願して人生が上手くいくような人というのは感謝の心を忘れないものです。
このように感謝の心を忘れないということは、それだけで物事の考え方が広がる(視野が広くなる)ことで平穏になれたり心が満たされたり、人に嫌な思いをさせることが減るため、結果的に幸福を手に入れやすくなるというのは間違いのないことです。
神仏に頼る前に、何も出来なくても感謝しながら生きるということは心を豊かにすることにもなっていくので、そうした気持ちで祈願するに越したことはありません。
逆に我良しな人というのは、得てして願いが叶えば知らん顔、人を踏みつけてでも自分や家族が良くなればという思考の人のことで、このような考えでは御利益は遠ざかってしまいます。
これは金銭的なことに限らずで、喉元過ぎれば熱さを忘れてはいけない戒めといってもいいものなのです。
神仏というのは、先見の明(先のことが見通せる)があり、人間レベルでは想像もできないぐらいの能力をお持ちなわけです。
人は騙せても神仏は騙せないのはこういうことで、如何に上手に神仏の前で立ち振る舞っても見透かされてしまうわけです。
よく願いが叶ったら、御礼参りしたほうがよいといわれるのは、単純に感謝の心が大切なわけであって、このようなことは人に言われなくても常日頃から持ち続けることは当然なことですよね。
さいごに
神仏への祈願について、少しでも参考になればと思い書かせていただきました。
せっかく祈願するのであれば、畏れ多いですが自分が神仏の立場に立って考えることも大切で、願いが叶わない疑問について記事にあげてみました。
それでは、この辺で終わります。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>