仏様の真言は僧侶から授かるものが最善といわれていますが、今回の記事は例外もあると感じますので、真言も授かることも変化していることを個人的見解として書かせていただくことにしました。
こうしたものを書かせていただこうと思いましたのは、仏教界やスピリチュアル界隈では通説になっているようですが、何事も時代の変化に適応することが大切なように真言も例外ではないと感じます。
これまで真言は僧侶など仏様に仕える人から授からないと意味がないといわれていますが、イトケンの中では疑問でしかないことでした。
いまはイトケンもネット検索したり教本を取り寄せて、いまなお我流色は強いですが真言を唱えたり活用させていただいている現状です。
もちろん、それによって仏様の効力を感じなかったことはありません。
これまで、お寺に行って偶然に僧侶が真言を唱えているところに直面したのは、京都の東寺(教王護国寺)ぐらいでしょうか。。。
まず、ここでお伝えしないといけないのは現在の僧侶や行者のなかに、どれだけ清浄に仏様と向き合っているものがいるのかということです。
我良しな僧侶や行者、また営利目的で修行や従事しているものから真言を伝授されて本当に効果があると思われるのでしょうか?
仏様とは人々の心を見透かされておられ、それは僧侶であっても同様なものです。
いくら過酷な修業をし真言を山ほど唱えても仏様が無であることなど普通にあり、厳しくもあり慈悲深い仏様は一般の人よりも僧侶や行者には厳しい目を持っておられるのです。
それは得度し仏教という教えを学んだもの所以(ゆえん)のことです。
そういったことがあるために真言を授かるということにも変化の意味があるのです。
つまり。。。現代の僧侶や行者といったものの劣化も否めず、清浄なる僧侶や行者に真言を授からないのであれば、ネットや教本を取り寄せて真言を唱えても変わらないわけです。
僧侶はその道に従事されているので、真言の唱え方も印を結んだり型なども疑いのないプロや専門家といった感じにみえますが、見た目だけで判断してはならないのです。
その人に必要とされる仏様からの導きは僧侶に関わらず多様化をみせていることは、私の経験や体験からお伝えできるものと思いました。
私の能力が特殊であろうとなかろうと、現に仏様の手印を他者が無意識の状態(憑依)から授かったり、真言を導きから僧侶を介さず得たりしたもので効力を頂いています。
真言は僧侶から授からないと意味がないことについて個人的な見解としてお伝えさせていただきました。
では、この辺で終わります。
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。m(_ _)m