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霊的真理とは|再生の意味と人生の教訓

スピリチュアルに欠かせないものといって過言ではない霊的真理ですが、再生(輪廻転生)を繰り返す意味が含まれていること、生きていくうえで人生の教訓というべきものでありながら知らない人が多いものです。いまの悩みや問題を解決するような糸口や原点といってもおかしくないものですので、これらを項目別に説明していきます。

 

霊的真理とは

 

霊的真理をひと言で説明できるものではありませんが、人間が学ぶべき真理について下記の黒板に簡潔にまとめてみました。

 

《霊的真理の基本》

 再生(生きる)の意味と目的

 苦難や苦しみの必然性

 自然の摂理

 因果律

 利他愛(利他主義)

 霊主肉従

 

これらのことが霊的真理の基本の原則であり人生の教訓というようなものになります。

 

霊的真理を受け入れることのできる人というのが、現在の生き方や考え方が変わっていくことなり真の穏やかな人生を手に入れることができるというものです。

本来の姿が霊である私たちにとって、霊的真理を知り実践することは人間として再生(輪廻転生)した目的である霊的成長を得ることができるということになります。

そのうえ霊的真理に沿って生きるということは最大のメリットといってはおかしいのですが、神仏や高級霊からの支援やご加護を存分に受けれる状態になるということでもあります。

しかし残念ながら世の中の多くの人は霊的真理に触れることもなく、人間性(肉体的な精神)が主体な生き方をしてしまうために我欲・利己的・自己愛中心の日々を過ごして天命を全うして霊の世界へ帰って後悔することになり再生を繰り返します。

ここでいいます人間というのは、期間限定の肉体に精神性がセットされたなかに霊体が宿っている(一般的にいわれる魂)ことをいい、これが人間の本来の姿です。

では霊的真理を知らなくては霊的成長が望めないのかというとそうではなく、カルマ(因果)の解消や良い行ないによって霊的な成長はするが不足してしまったり、新たなカルマを作ったりすることになりやすいということです。

そのうえ辛苦の意味や痛みや悲しみの意味も知ることないために、神様や人間世界の不公平に嘆いたり恨んだりすることになるのです。

霊的真理については、ざっと簡単に説明して次に進みます。

 

霊的真理からみる再生(生きる)の意味とは

 

カルマ(因果)の精算と霊的成長の目的が再生(生きる)の意味です。

 

世の中の一般的な肉体がメインの精神ですと、地位や名誉や財産などを得て他人より優位に立ったり羨ましがられる生活をしたり、物質的(おもにお金)なものが中心の生活が再生であり輪廻転生の最大の目的であると思い込んでしまっているようです。

霊の世界では物質的なものや人間の世界の価値観はまったく意味がなく通用しないので霊の世界に帰ったときに残念な思いをしてしまいますが、これが一般的ともいえます。

ですから不幸な家庭環境に生まれたり不運な人生を送る人というのは前世で真逆な人生を歩んできたりするのですが、これは霊の世界で再生をしようとするときに自分が望んだハードルでしかありません。

しかし人間の世界は長くて100年程度であり、霊の世界は永遠であることをに気付けないために人間の生活がすべてと思い込むのも仕方ないことです。

本来は最初に書きましたカルマの精算と霊的成長が目的なので、いま起きている苦しいことや困難や悲しみや病気に堪えカルマの精算をするとともに、良い行ないや辛苦を乗り越えることによって霊的な成長を果たし霊的な財産を得るために再生を繰り返します。

 

カルマとは、過去(世)での行為は良い行為にせよ悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくる因果律のことです。

 

利他愛(利他主義)が大切な意味

 

まず利他愛というのは広義において叡智(深遠な道理を知りうる優れた知恵)をもって挑まなければ容易ではないといえます。

少しイエス・キリストの言葉から抜粋しますと、

『汝の敵を愛し、汝を憎む者に善を施し、汝を呪う者に祝福を与え、汝を辱(はずかし)める者のために祈れ』

これを利他愛に含めて実践することなど誰でも困難であるといえるものです。

 

しかし、上記のことを人間として行なえるのは神の域の人ですから普段からできる基本的な利他愛について説明していきます。

利他愛とは自己の利益を犠牲にしても他人の利益を優先すること

つまり自分のことより先ず他人を優先して無償で施し見返りを求めない行為

この利他愛ですが霊的真理のなかでも大きな意味を持ち霊的な成長が大きく見込めることになります。

このような利他愛のある人もカルマの解消はあり他に苦しむことはあっても、現世においても神仏や高級霊の支援や加護を受けれますので生きるための最低限の保証はされているといって過言ではありません。

利他愛(利他主義)というのは自分より他人を優先して愛するという意味をもちますが、家族の横並びな縁のある人たちを愛することでも恋人など人間の本能が絡んだものではなく、まったくの他人それも分け隔てなく愛することをいいます。

よく家族のために身を犠牲にしている人を見かけますが、それも素晴らしく並大抵なこととは思いませんが、家族を大切にするのは言い方が悪くて申し訳ないのですが当たり前なのです。

家族などを最大限に愛して尽くしたとしても利他愛に勝るものはありません。

他人の利益というのは、なにも金銭的なものだけではなく困っている人に手を差し伸べたり悲しみに暮れる人を悲しみの淵から救ったりすることをいいます。

世の中には素晴らしい人がいるもので、分け隔てなく好感が持てない人にまで手を差し伸べることができる人がいますが、そのような人こそ霊格の高い人であるといえます。

あのスーパーボランティアの尾畠春夫さんなども霊格の高い人といえますが、やはりそれを理解できない人からしますと当初は変人扱いを受けたりしてもおかしくないといった感じだったと思います。いまでこそ称賛されていますが人間の世界では、利他愛を理解できない人からしますと紙一重である行為ともいえます。

もう一点は霊の世界では自己愛はなく利他愛が主流なわけですから、どんな人間であれ生涯において無条件に守護霊や背後霊が手を差し伸べたりしてくれるように、私たち人間も本来は霊であることから見習わないといけないことです。

守護しているものや背後にいる霊がその人に好感を持っているとは限らず、もしかすると我欲の強い身勝手な塊かもしれなくても付いているのは利他愛がある所以です。

たまに罪を犯したり悪人と言われる人には守護するものや背後霊はいないようなことを言う人がいますが、霊の世界では人間の世界とちがって平等です。しかし悪事を働いた人を守るというより静観してみており、なにかで知らせようとはしてくれているものです。

 

霊能者や自称霊能者が利他愛ではなく私利私欲に走ってしまっているということが目に余るほど多いのも、この霊的真理や利他愛を知らないといっていいものです。

 

自然の摂理を知る

 

自然の摂理といいますと神様の創造されたものであり、不変であり狂いがなく万物に影響を与えるものであるというものです。

私たちが水や食物がなければ生けれないように、動物にも弱肉強食の原理があり植物にも周りの植物や虫が影響して生育しすべては狂うことなく回っているものです。

地域によって差がありましても季節があり夜があって夜明けがあるのも自然の摂理です。

肉食動物が獲物を食べるのも生きるための手段として必要な分だけを狩り満たされているときは獲物が目の前にいても狩ることはなく、交尾についても人間のように自由意思で必要以上に貪ることはなく子孫繁栄のための手段としているため大自然のバランスがとれているともいえるのです。

 

この自然の摂理は大自然のことだけではなく因果律(因果応報)というものまで狂いがなく起こるといったことも含めますと、すべての万物に公平に影響を与える広い意味をもつものといえます。

ですから自然の摂理というものを人間にあてはめますと、すべての物事は公平であり狂いがないものであって不公平に見えることも実は最後には帳尻が合うものです。

 

苦難や悲しみの必然性

 

世の中に苦難や辛苦や悲しみがないまま一生を終える人は誰1人として存在しません。

それは再生(生まれてきた)してきた目的が各々にあるからであって目的がなく偶然に生まれてくることは皆無であり、すべては霊的成長を望んで自らの意志で生まれてくるのです。

それは霊の世界に帰れば分かりますが永遠に続く魂にとって霊的成長をすることで霊格を上げ、より素晴らしい境涯を目指すとともに霊として安寧(無事で安らかなこと、特に世の中が穏やかで安定していること)を望むからです。

それには各々の霊が霊的成長を果たさなければ叶えられないものということも分かっていることであり、類魂といわれるソウルメイト(魂の伴侶)とともに成長する目的を果たすために再生を繰り返します。

 

しかし実際は人間として生まれてくるより霊でいる方が楽です(-_-;)

これは私が日々強く思うことで、どれだけ肉体の不便さや付帯している精神の煩わしさだったり、この精神が煩悩や我欲を引き起こそうとし苦しさや悲しさ痛みなどを感じさせるものであるということです。

楽といいますとおかしな話になりますが、この人間の肉体には病気になることもあれば痛みや怠さを感じ、物質(お金や物)に捉われ三大欲求(食欲・睡眠欲・性欲)にも翻弄され、肉体とセットになった精神に悩むのです。

そのうえにカルマ(因果)などがのしかかるのですから、皆さんは普通に生きているだけで十分頑張っていると思います。

それでも霊の世界に帰れば再生(生まれ変わって)してカルマの解消をしたい、また霊的成長を遂げたいと誰もが思い志願して現世にやってきます。

霊の世界では再生によって苦しむことや悲しみに暮れることが予想できてても望むのです。

しかしお母さんのお腹に宿ったときには、そんな霊の世界でのことは何も覚えていないので神様は不公平とさえ思いながら自分の希望したことも忘れ将来や身近に迫る辛苦や困難や悲しみを頑張って乗り越えないといけないことになるわけです。

 

さて説明が長くなりましたが、苦難や悲しみの必然性について少し前書きでも触れました通り、すべては自分が望んできたものですから必然というのは当たり前なのです。

ですから周りの人が幸せに暮らしているからといって内情は分からないものですし、10年先20年先には自分より辛苦や悲しみに暮れることになる可能性だってあり、病気になって毎日痛みと戦わなければいけないかもしれないのです。

人の必然的に起きるものが前半に起きるか終盤に起きるか長期に渡るのかは、各々のカルマの度合いによってちがいますが避けれるものではありません。

しかし必然的に起こる辛苦・困難・悲しみ・痛みというものは見方を変えれば現世(人間の期間)限定であり道場などに一時的に修行に来ていると思う方がいいのかもしれません。

これらはすべてカルマ(因果)の解消をしている最中であり来世に持ち越さないように乗り越えていきたいものです。

 

霊主肉従の意味を知る

 

文字の通り霊が主体であり肉体を従わせるものという意味です。

よくいわれます“火事場の馬鹿チカラ”のように人間というのは自分の認識を越える潜在能力があるのも霊的な部分が前に出たときに起こるようなものです。

しかし、ここでは体力的な能力ということは置いておきまして霊的な部分を認識していくこと、つまり人間にはもう一人の自分という霊的な部分があるということです。

この人間の「肉体」と「霊(魂)」について説明していきたいのですが、単純にいえば「肉体」部分が動物的本能を主体とし「霊(魂)」部分が神性を宿した部分であるのです。

これは何を言いたいかといいますと人間本来の「肉体」というのは色んな欲の塊でもあるので、霊的成長を望むためには動物的な感覚を「霊(魂)」の神性をもって抑制していかないといけないということです。

これは霊的真理であり霊的成長に不可欠なものであって、すべては神性をもって抑制したりコントロールすることは可能であるということになります。

性的なこと物質(お金やあらゆる物)や食べ物についてもいえることで全ては自分を抑える又はコントロールが大切ということになります。

これらは抑止をしないために結果的に精神や肉体が不健康になる引き金となるばかりか、生活設計まで崩壊させてしまいかねないものにまで発展する可能性を含んでいるのです。

よくいわれます「中庸」というのが良くて何事もほどほどがベストといえます。

人といいますのは過ちを犯すことは誰にでもあって当然なのですが、その過ち犯してしまっても悔い改めて二度と繰り返さない努力をすることが大切なのです。

 

人間界の慣習というのは時代によって変化するものであり、人間の世界の常識や慣習というのは常に変わるのが普通で、霊的な世界は不変でありメインでありことから霊主肉従が大切であり根本なのです。

 

さいごに

 

私も記事のなかでよく使う言葉なので記事にしてみましたが、ひとりでも多くの人に意味を理解していただければ幸いに思います。

こんな私も霊的真理というものなどスピリチュアルを始めるまでは霊的な経験があっても無縁のことでしたが、スピリチュアルのス程度しか知らないと記事が書けないので書物などから勉強していった経緯があります。

それと守護霊などから学んだ知識と照らし合わせた結果の内容になりました。

いつものことですが説明が下手なので読みにくいと思いますが、お付き合い下さいましたことに感謝いたします。

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました<(_ _)>

 

 

 

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