先祖供養しなければ祟りがあるとかないとか言われていますが、現実には先祖の祟りは作り話であって祟りというものはありません。なぜ先祖は祟らないのかといったことなどを説明させていただきます。

 

はじめに

当ブログが供養などのことについて書いているのは、多くの人が直面する問題であることから現実を知っていただくためにお伝えさせていただくものです。

 

近年は継承者や縁故者のいない無縁墓(むえんぼ)が増え続け、墓じまい(廃墓)や合祀(他人の遺骨とまとめて埋葬すること)を考える人も少ない状況です。

 

そんななかで心配になるのが先祖供養をしなければ、先祖の祟りがあるのか先祖が悲しみやしないかという問題です。

 

そういったことについて少しでも参考になればと書いていきます。

 

先祖が祟るというものは日本独特のもの

よくいわれる先祖の祟りですが、世の中の通説が正しいとは限らないのです。

 

このような「先祖の祟り」という宗教的な感覚は日本特有のものであるといって過言ではありません。

 

なぜならば、他宗教における死後の世界感はまったく異なるからです。

 

よくいわれる、「亡くなると神のもとに召される」という考えのほうが世界的に一般的なものですから、供養をしないと先祖の祟りがあるというのは日本独特な考えなわけです。

 

キリスト教では前述の神の元に召されるとしますが、ヒンドゥー教徒は聖なるガンジス川に火葬した遺骨を流したり遺体をそのまま流す「水葬」という風に地域によって違いはあれどヒンドゥー教徒は基本的にお墓をもちません。

 

日本に生まれれば供養によっては先祖の祟りがあり、外国に生まれれば先祖の祟りがないというのは甚だ違和感でしかないわけです。

 

それとも日本の先祖や故人だけが死んでもうるさいのでしょうか。。。

 

と、いうことになります。

 

つまり、仏教・キリスト教・ヒンドゥー教・イスラム教など死後の世界感が違うというのは、宗教者や権力者が勝手に手を加えて教えを広げたということです。

 

本来、どこの国に生まれようが死後の世界感が同じでないとオカシイのです。

 

供養・お墓・法事って意義は?

供養とは心でするものであり、人間であれ故人(霊)であれ大切なのは儀式や形式ではなく、いつの時代も「心」が優先するのです。

 

お墓は物質的なものを埋葬する場所であり、故人との面会場所のひとつです。

 

このお墓も時代の変化とともに無縁墓が増加していき、墓じまい(廃墓)をしたり合祀といった形式が一般的になりつつあります。

 

少子高齢化の波も止まることなく、このままでは墓を守るものや供養するものが居なくなるのは一目瞭然な状況です。

 

そのような状況で本当にお墓というのが大切なものかとなります。

 

では、永代供養なら大丈夫ではないかという考えにもなるかもしれませんが、永代までお墓を管理するところが存在しているかということも100%ではないのです。

 

現に菩提寺の売買や墓地管理施設の破綻ということもあるなかで、人口が減れば運営にも影響していっても全く不思議な話ではありません。

 

 

法事は儀式であって供養のほんの一部であり、お坊さんにお願いしてお金を払わないと日本で生まれた人は死んでも神仏からの御加護は受けれないといった解釈も矛盾しています。

 

そんなバカな話はありません。

 

神仏が神社やお寺にお金を払わないと動いてくれない存在ならば必要ないのです。

 

法事というのは、お寺の維持管理をしていくうえで大きな収入源であり必要な経費ともいえるわけですが、現代の多くのお坊さんにそこまでの清浄な志をもって行に勤しんでいる人がいるとも思えないのです。

 

率直申しますと、得度した(僧侶になった)からといって神仏と繋がっているというのは形式だけであって、お釈迦様の教えを守って慎ましく清浄に過ごさないと一般の人と何ら変わらないわけで、お経が上手に唱えれて教義に詳しいだけの人になるわけです。

 

これは免許や資格があれば認められるという間特有の解釈であって、それは僧侶にも同じことが言えるもので神仏などの高尚な存在はそこではないのです。

 

よく霊能者やスピリチュアルで有名なブロガーが開眼(御霊入れ)はお坊さんにお願いしないといけないようなことを言いますが、本当にそのようなことが出来てると思っているのでしょうか?

 

故人に対して位牌やお墓の開眼供養・開眼法要・入魂式といったものは仏教独特のもので、他宗教(キリスト教・ヒンドゥー教・イスラム教など)にはないものです。

 

話しが少し逸れましたが、法事が絶対必要かといえば微妙なもので先祖に対する儀式的なものか故人に対する他界したことを認知させるようなものです。

 

最終的に一番大切なものは、先祖であれ故人であれ忘れないことであったり心を通わせることが優先することになります。

 

さいごに

先祖の祟りといったものは仏教に根付いたものであって、他宗教にはない教えであるということです。

 

神社やお寺は大切なもので将来も維持していただきたいものですが、運営するために一般大衆のチカラを借りなければ立ち行かなくなることも現実です。

 

しかし誤った認識を植え付けることも、そうしたものに翻弄されることも如何なものかと思いますので記事に起こしてみました。

 

 

それでは、この辺で終わります。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。<(_ _)>