神仏に関すること

神仏を信仰しても何も感じない理由

神仏を熱心に信仰しているのに気配すら何も感じないという人がおられますが、それは信仰することの目的や神仏によっては何も感じることが出来ない理由があるからです。

 

はじめに

スピリチュアルな情報には、神仏との関わりを書いたものが多くあります。

 

しかし現実には、僧侶やお寺関係者また熱心に信仰している人の中にも、神仏の気配も何も感じない人が多数いるのが現実です。

 

なぜ一生懸命に信仰しているのに何も感じないのか?もしかして神仏なんて存在しないのかなどを説明していきたいと思います。

 

神仏は存在するのか?

神仏は間違いなく存在します。

 

ここでは具体的に言い表せないのですが、幾度も関わらせて頂いています。

 

しかし、神社やお寺の中には神仏がいない所も少なくないように感じます。

 

関西の有名な神社仏閣や知名度の高い仏像の中にも、御霊がないものが現実にあります。

 

なぜ、このようなことがあるのかといえば。。。

 

神社にしてもお寺にしても人間が作ったものであり、神仏がお望みになられて作ったものではないという盲点があります。

 

神殿や仏像を造り如何に神仏と繋がって如何にお越しいただくのかになり、人間目線でいう本社と支店というような簡単なものでもないのです。

 

神社やお寺を営利目的が絡んで作られたものに対して、神仏が関わられることは稀なのかなと思います。

 

間違いなく、神仏は人の心を見透かされているのですから。。。

 

もちろんイトケンは完璧ではなく、まだまだ未熟なので波動が合わない神仏や方向性が違う神仏は存在を感じさせてくれないかもしれませんが。。。

 

神仏を信仰して何も感じない理由

神仏を信仰していて気配も何も感じないには下記の理由が考えられます。

 

仏様の尊位または尊格、要するに仏様の位(如来~天部)といった波動が合わない。

 

尊位や尊格といったものが高いほど、シビアな対応をなさられます。

 

つまり如来や菩薩クラスは、下手すると一生何も感じないこともあります。

 

神様や仏様と信仰者の考えにズレが大きい。

 

何らかの利己的な目的で信仰していると繋がることは出来ません。

 

信仰の対象となっている神社やお寺に存在が居ないことがある。

 

疚しい気持ちや真理に反した行ないが多いことを見透かされている。

 

さいごに

神仏を信仰することに、なぜ気配や何か感じるものが欲しいのかが疑問になります。

 

神仏の存在を信じ、純粋に信仰していれば気付かぬところで御加護を頂けたりするものであり、存在を感じることが目的ではないはずです。

 

それとも、繋がるステータスや安心感を欲しているのでしょうか。

 

つまらぬ疑念を抱くことなく、信仰していれば存在の有難さに気付く日が来ると思います。

 

法力や神通力みたいな不思議なチカラはメリットばかりではなく、リスクを伴うものなので一般の人は相当な覚悟がないと望まない方が賢明と感じます。

 

それでは、この辺で終わります。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>