真言はスピリチュアルや僧侶から授からないと意味がないといったことを散見しますが、誰にも授からないで真言を唱えることと何が違うのかを説明させていただきます。
はじめに
真言とは、サンスクリット語のマントラというものの和訳で、仏の言葉・偽りのない真実の言葉・密教で真理を表わす秘密の言葉とされています。
真言自体もサンスクリット語の和訳であり、人間が仏教用に書き換えたものです。
この真言ですが、スピリチュアル系ブログやYouTubeなど様々な媒体から発信されていますが、授かることは何が本当なのだろうかと疑問をもたれるかもしれません。
実は、真言を授からないと意味がないというのは簡略化した言い方に過ぎません。
では真言を授かることについての現実を、下記にて説明させていただきます。
真言を授かるとは?
これを超簡単に説明しますと、仏教関係者(僧侶やお寺など)から仏様を紹介(縁を繋ぐ)してもらうことによって、個人的に真言を唱えるよりも仏様と通じやすくなるという意味です。
つまり、お寺などの仏様に毎日手を合わせて勤行している僧侶などは仏様と繋がっているから、その人たちから仏様を紹介してもらうことが真言を授かるという意味なんです。
要するに、知り合いから芸能人を紹介してもらうことと似ています。
テレビで観るような芸能人に直接お声掛けしても相手にしてくれなかったりするものですが、その芸能人と関わりのある人の口利きがあればお話ができるような感じです。
その真言に見合った仏様と御縁を頂くような意味合いで、仏様に仕える僧侶などから真言を授かるのが望ましい(早道)と言われる所以です。
真言は授からないと意味がない訳でもない
しかし、現実的な話はここからです。。。
仏教関係者やスピリチュアル系ブログでは、真言は授からないと意味がないということを言われていますが、それも間違っていないので否定はしませんが言葉が足りません。
当ブログの管理者イトケンは、まだ真言を知らない時から他者に対して仏様にお願いして普通に除霊をすることが出来たのですが、霊能者の霊視と同様に前世から持ち越したスキルや能力といったものが引き継がれていることがあります。
こんなことを自慢しているのではなく、真言を授からなくとも仏様と道(縁)をもっている人もいることがあります。
あと、親や先祖が信仰していたおかげで仏様と縁が繋がっていることもあります。
私が高野山とご縁があるのは先祖が信仰していたからだと守護霊からお伺いしたこともありますから、こうしたことをお伝えしているのです。
もちろん、縁だけでなく信じられない御加護というようなことも数々体験しています。
このように、真言を授からなくとも元から仏様と繋がっていることがあります。
そのほかにも、仏様からのオファーということも稀にあります。
その人の信仰に対する思いが仏様の考えと一致したり、多くの善行を積んでいると仏様から導いてくれて御縁を認識させてくれることも無きにしも非ずだったりします。
その逆に仏教関係者や僧侶であっても、何十万回何百万回と真言を唱えてきたものが仏様から認めてもらえないような人たちがいたりすることも現実にあり、そうした人たちから真言を授かっても単に人から真言の唱え方を教えてもらっただけのこともあります。(仏様とは繋がっていないという意味)
職業坊主や一般の人と変わらぬ行ないや心持ちの僧侶に、仏様との御縁を授かる資格は微塵もないわけです。
そうした人たちが仏様と繋がるのであれば、清浄な心や行ないをしている人が一生懸命信仰して真言を唱えていれば仏様と繋がらないわけないのです。
仏教でいわれる受戒や修法なども人間が作った形式に過ぎず、お釈迦様の教えを少しでも学べばこのようなことは簡単に理解できるのはないかと感じます。
さいごに
真言を授かるということは、仏様との縁を繋ぐものです。
僧侶や仏教関係者から真言を授かったから、仏様との道が繋がったと思うのは早合点であって、その先に本当に繋がっているかを考えた方が良さそうです。
すべては真言を授かろうとするものの心次第だったりするのが現実です。
御利益目当て・利己的な考え・他力本願・邪悪な思考・仏自慢・私欲など人間の穢れた考えで真言を授かろうとしても仏様はお見通しになられていますので、本当に真言を授かっているのでしょうかね。。。
それでは、この辺終わります。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>