お彼岸やお盆などお墓参りに行きたいのに場所が分からなかったり急な用事ができたり、お墓の場所が遠くて行けないときなど、どうしたら良いのかを説明させていただきます。
はじめに
お墓とは、故人や先祖と面会する場所のひとつです。
勘違いしている人が多いようですが、お墓は故人や先祖が眠る場所ではありません。
お墓参りをしないと先祖や故人が怒るというものではありませんが、やはり寂しかったりするので気持ちでお墓参りすることがよろしいかと思います。
そこで、お盆やお彼岸だけでもお墓参りをしたいが事情があって行けないときに、どうすれば良いのかを説明していきたいと思います。
その前に、少しお墓に対する考え方を先に触れておきます。
お墓に先祖や故人は永住していない
そもそも、お墓自体の歴史が浅いことも根拠のひとつです。
お墓制度が始まったのが江戸時代からであり、お墓は高価なものだったために大々的に一般庶民に広まったのは『昭和』に入ってからだったんです。
それまで土葬や風葬が主流で、そのあとは共同墓から始まっています。
そこに突如として、お墓制度が出来たからといって、先祖や故人がお墓に居つくほうが違和感があるということにもなります。
私がこれまで多くの故人と話した中では、亡骸に執着している霊はいませんでした。
それに戦争や災害などで行方不明になって遺骨が見つからなかったりするものは、お墓にも入れず永遠に救われないといった解釈なりますが、そんなことは殆どないのです。
あとひとつ。。。もしお墓が故人や先祖の居場所とすれば先祖代々の霊がたくさんいて、他のお墓も同じことになりますから、霊園には溢れんばかりの霊が居ることになりますが、そんなこと聞いた試しもありませんよね。
こうしたことから、お墓というのは慣習的なもので先祖や故人が居てる場所ではないのです。。
お墓に行けないとき、どうしたら良い?
何らかの事情で、お墓参りに行きたいのに行けないこともあると思います。
そのようなときに、どうすれば良いのかお伝えさせていただきます。
☆先祖や故人の姿を思いながら心で供養をする。
(※なによりも最善の供養です。)
実は、たったこれだけのことをしても先祖供養が成り立つのです。
もちろん、お盆やお彼岸といったものも同様です。
本来は、いまの自分がいるのは先祖のおかげであると日々先祖に感謝を伝えることが大切であったり、大切な故人との出会えたことに感謝するというような感じです。
世間では仏教の慣習が正しいものと判断しがちですが、江戸時代の檀那寺(檀家)制度によって方向づけられた、寺院の維持継続のための政策だったものが現在に引き継がれているわけです。
「えっ?先祖供養は仏教の根本ではないの?」ということになりますが、お釈迦様は『供養は不要』とお答えなさられているのです。
これについては、『歎異抄』(たんにしょう)というなかにも書かれています。
なんか難しい言葉なので、そこは普通に飛ばして続けます。
つまり。。。
江戸初期ごろから、『死者はお墓に住み続ける』という説になったわけです。
それまでの平安時代から鎌倉時代は亡くなれば浄土に行き、「この世に留まるのは浮遊霊」であるとされていました。
江戸時代より前は、お墓は浄土に行くまでの仮の住まいみたいなものであった。
『盂蘭盆会』(うらぼんえ)という『お盆行事』がありますが、これも本来の仏教の根本であるインド仏教にはなくて、中国仏教から始まったものなのです。
ここから霊的な話になりますが。。。
先祖や故人の霊は、人間みたいな肉体を持ち合わせないため(仮の姿はある)基本的に五感は働きません。
霊のメインとなるものは『思念』というものです。
人は「以心伝心」という言葉がありますが、このような感覚が霊の世界では通常のものとなります。
以心伝心とは、自分の考えていることが言わなくても相手に伝わること。
心に思うことが、すべて伝わるというものです。。。
お供え物をする➡その見た感覚が伝わる
何気に思うことが➡先祖や故人に届く
自己の感性に訴えかけるものすべてが、先祖や故人に同調を与えるって感じです。
こうした感覚は、「般若心経」のなかに出てくる「空」や「無」といったものとも一致していくものですが、現世のスピリチュアルの見解では理解し難いのかもしれません。
さいごに
お盆が近いということもあり、現実の供養の在り方を混ぜながら書かせていただきました。
お墓参りする、仏壇に手を合わせる、供物を供える。。。これみんな気持ちが嬉しいものですから、こうした先祖供養は意味のあるものです。
しかし、お墓に行きたくても行けなくても大丈夫だということが、少しでもご理解いただければ幸いに思います。
それでは、この辺で終わります。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>