愛する家族や恋人また大切な人が故人となり亡くなったときに、気配だけでも感じたいのに感じることが出来ないことには理由があります。この故人の気配について説明していこうと思います。

 

はじめに

人は亡くなっても「無」にならないのは周知のことと思います。

 

霊の世界の現実を知らない人からすれば、故人を見ることも叶わないので何を信じていいのかわからず気配がないのは無となり消えてしまったと思いがちですが、私たち本来の姿に戻ったに過ぎないのです。

 

このようなことを妄想や虚言でお伝えするほど当ブログは浅ましくありません。

 

愛する人や大切な人が見えなくて気配だけでも感じたいのにといった、遺された人たちに少しでも現実を知っていただくために書いています。

 

亡くなってしまった故人の気配と波動

一般的に亡くなると故人の波動は上がります。

 

なぜ亡くなると波動が高くなるのかというと、思念はあっても肉体という鈍重な遮るものがなくなるために波動が上がります。

 

しかし、自殺したり現世の何らかに未練や執着が強過ぎると波動は生きている人よりも下がります。

 

それは私たち人間で例えると、快活なときと精神が沈んでいる時の状態が違うように肉体から離れると波動などの変化が顕著に現れます。

 

つまり、寿命など自然死における波動も何らか曰く付きの死による波動も、基本的には生きている人がその中間に居てるような感じになるわけです。

 

もちろん、波動も高くなるほど気配さえ感じることが難しくなります。

 

故人の気配と遺された人との状況

愛する人や大切な人が故人となってしまったときに、人によっては故人が見えたり気配を感じたりすることがありますが、その違いは何なのかということについて説明します。

 

前述しました波動は度外視の話とします。

 

辛く悲しい状態の人は波動が低く、故人に会いたいとか気配を感じたいと願っても叶わないのは、この波動の低さによって一層のモヤがかかるのと同様のことになります。

 

少し落ち着きを取り戻す方が故人とのアクセスは取りやすくなりますが、あくまでも霊的な感覚などの察知能力に違いもあるので結果は各々異なります。

 

亡くなって間もない期間に亡くなった人が現状を自覚した場合は、まだ波動も高くないので幾分ですが気配や夢といった何らかのアクセスは取りやすいものです。

 

しかし、こうしたことも波動が関係していたり、遺された人の状況如何によって姿を現わしたり現わさなかったりということもあります。

 

霊的な世界の掟(?)というのか、掟ではないのですが流れというものがあります。

 

それは悲しみに打ちひしがれている状態のときに故人が姿を現すと、亡くなっても存在はあったと喜ぶと同時に会いに行きたくなるというのが一般的な見解とみます。

 

どういうことかというと、自分が死ねば同じ状態で会えると思う人も少なくないということです。

 

しかし現実は自死による後追い自殺をしたところで会えるはずもなく、霊になって長い期間後悔する羽目になるのです。

 

もちろん、後を追われた故人は自責を抱き喜ぶはずもありません。

 

そのために深い悲しみの時に気配すら感じないことが多く、死別したことを受け入れるというのか少し辛苦が収まったときに気配でなくとも故人から何らかのアクション(夢・匂い・音・偶然に目にする故人に関係するものなど)を感じたりすることがあります。

 

故人が遺された家族や恋人などに存在を示そうとするときに、時間(月日)が経てば経つほど波動を落とすことをしないとアクション自体も叶い難いものとなります。

 

故人と遺されたものとの別れの意味

人間の世界というのは、出会いがあれば必ず別れがあります。

 

これから書くことは死別に限ったものではありませんが、出会いによって人生が良くも悪くも変わり、別れは出会い以上に人々の成長の糧になっていくものです。

 

特に死別は大きな出来事ゆえに立ち止まり後退することも然りなのですが、私たちの身に起きることはすべてに意味があるのです。

 

決して偶然に起きるものではなく、遅かれ早かれ必然に死という別れは訪れるのです。

 

死別というのは、人々が命の尊さに対して考える時期でもあり自己を見つめ直したり、人生に対して何らかの大きな転換期や気付きになるものであったりします。

 

いや、そうでなくてはいけないのです。。。

 

愛する大切な人の死が、苦しみの境地のまま終わってしまうようなことがあっては亡くなった故人は安堵することも出来なくなります。

 

さいごに

故人の気配を感じることは遺されたものにとって嬉しいことであり、故人も同様に喜ぶものです。

 

気配を感じることが出来なくとも、故人には一部始終伝わっていたりするものです。

 

以心伝心の如く、故人の反応が分からなくとも愛のある波長から同調して想いや気持ちは間違いなく届いているのです。

 

私が神仏や高次元のような存在に対して祈念することも反応が分からないことだってありますが、お聞き届けていただいた結果としては受取れたりするものです。

 

まずは、故人の存在を信じ切ることから始めることも大切なことだと感じます。

 

 

それでは、この辺で終わります。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>