生活・人間関係(友人、失恋、職場、家庭など)・大切な人の死など様々な理由から死を意識したり選択してしまうことがあると思います。そんなときに自ら命を絶つことのほうが楽に思えることも、本当は死ななくても生きるだけで良いという理由があるというものです。それをこれから説明していきたいと思います。
生きる本来の目的はこの世にあらず
霊的な世界のことやスピリチュアルのことをあまり知らないと理解に苦しむようなことを書いているかもしれませんが、人間というのは本来の姿は霊(魂)であり霊の世界がメインだということです。
この世(現在住んでいる世界)は一時的であり、霊の世界からしますと人間の世界は短期間の修行や試練の場所でしかないのです。
人間の世界に生まれてくる目的は、決して裕福な生活をしたり地位や名誉を得たり楽しいことや人より優位に立つことでもなく、辛苦を味わったり悲しみや寂しさを乗り越えて霊的成長を望むほかにありません。
この霊的な成長ということの意味は、霊の世界は階層というものがあり神様に近づく位置づけも然り階層が上がることによって、人間が経験したことのない素晴らしい世界にいくことでもあるのです。
とはいいまして、いま生きるのに辛かったり悲しかったり苦しいなかでは、このようなことを説明されても受け入れれないかもしれません。
しかし人間の世界は霊の世界からしますと長く生きても約100年という一瞬のものであり、霊の世界は100%実在し数千年から数万年を超え無限に生き続けるという現実です。
ですから誰もが人間という肉体を纏ったのちに死という肉体を捨てた状態を経て、魂(霊体)だけになり本来の霊である世界での長い生活に戻っていくわけです。
このことを知らないからこそ、生きることが辛く悲しいものになるのです。
この項で申したいのは、いまの環境や境遇が辛く苦しいものであっても一時的なもので霊の世界からしますと間違いなく精神の鍛錬のための旅や研修に出ているものでしかないということです。
生きるだけで良いのはなぜ?
簡単に申しますと人間として生きるため霊的な長い期間の生活を経て、短い人間という生活に自ら望んで生まれて来たからです。
現在起きている境遇なども信じれないかもしれませんが自分が望んだ環境であったり、過去世での行ないなどの因縁が影響したりするのが一般的なので、それに堪えたり乗り越えることで自ら課した課題ををクリアにする目的であるためです。
そのために一番大切なことは誤った道を選ばないことであり、何も出来なくても精神的に不安定になっても生きるという大変さを背負い鍛錬することが大切なわけです。
このようなことから、生きるだけでも霊的には大きな意味があるということになります。
人は社会や周りの目のために生まれて来たのではなく、自分という存在(霊体)を成長させるためでしかないので他人に迷惑をかけなければ他人がどう思おうが判断しようが一切問題はなく、課題をこなすためだけに生きていけば良いのです。
大切な人を失くした辛さや悲しみに対して
これは経験した人しかわからないことかもしれませんが、大切な人がなくなるということは生きる希望がなくなったり後悔の念が湧いてきて自責の日々が続いたり、喪失感からくる虚無感に苛まれたりします。
このような境遇に遭いますと、いずれも生きていくだけでも大変な状況に陥ります。
そのときに生きることさえままならない状況になったりしますが、社会や周りの目を意識することなく無理せずに生きていくだけでも良いのです。
こんな中でも生きていますと、故人がその想いや生きているだけでも頑張っている姿を見たり感じたりして、死後の世界でも頑張って前を向いてくれるようになったりすることから、故人にとっては供養のひとつになるのです。
こうして生きているだけの状態でありましても、霊的にみれば再生(生まれてきた)した目的を遂行していっていることになるのです。それほど大切な人の死というものは、残されたものにとって人生でも大変大きな苦難に直面している出来事になります。
ですから、大切な人を失くしたために何も出来ずに生きているだけなんて一切思うことなんてありません。
私は彼女の死を経験するまでと現在では思考に大きく違いがでてきたことも事実であり、ただ生きているだけで過ごしてきたという経緯を持っています。
失恋や離婚からくるものについて
失恋や離婚といいますと、どちらか一方に非があるばかりでなく相性が関係していると思うのですが、実際のところは「縁」というものが大きく関係しています。
この「縁」というものがあるからこそ、出会いや別れというものがあるのです。
少し外れたお話をしますと、他人に対して好きや嫌いという感情も実は過去世からの流れの影響を受けているものもあります。
ですので失恋や離婚に明白な理由があろうがなかろうが、自分では変えることができないのが現実です。よく後悔して、あのときこうしておけばよかったというのもタイミングも含めて「縁」でしかありません。
あまりの悲しみや喪失感から生きる希望がなくなり自殺を考えることもあるかもしれませんが、私たちには変えれない運命であったと理解すべきことなのです。
人間関係がうまくいかない
友人や学校や職場や家庭のなかで、人間関係がうまくいかない人がいてもおかしいことではありません。
なかには友達が出来なかったりイジメや虐待に合っている人もいるかもしれません。
ここで一番大切なのは、自分の視野を狭くしていってはいけないということです。昔はイジメられたとか友達がいなかったというような話を聞くことがありますが、このようなことも生きている限り永遠に続くというものではないということ、人は生まれてくるときは一人で生まれ死ぬ時も一人で死んでいくものだからです。
自分の視野を狭くしてしまいますと過去や現在という短い期間にとらわれてしまって、自分の考えが孤独のような環境を引き寄せてしまうものですから、大らかな気持ちで自分に自信をつけるようにすることです。
友達や同僚や家族とうまくいかないことも、現在は何らかの気付きや霊的修行や試練の期間であることの方が多いものですので、あまり気にせずに自分自身を認めていけば良いのです。
さいごに
現在の自分が存在しているのは、霊的な世界で辛苦を味わうような境遇を選んで生まれて来たことを忘れているに過ぎません。
人生で平穏に生きていけることが本当は望ましいと私も思いますし、多くの人がそうであるように願いたいものです。
しかし霊的な世界を知った今は、平穏な生活や何も不自由のない生活をする人は霊的に生まれてくる意味が少ないように感じると思うようにもなりました。
ただ人の幸不幸は各々の思い方や捉え方で変わるのも事実ですので、如何に今の境遇を捉えていくかで感じ方には差があると考えます。
生きることは決して楽ではないかもしれませんが、生きただけでも良かったと霊的な世界に戻ったときには必ず思えるものです。
今回は久しぶりに記事を書きましたので、また説明などが下手な状態に戻っているかもしれませんが、ご了承くだされば幸いに思います。
なお今回からブログを再開していく予定ですので、今後ともよろしくお願い致します。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました<(_ _)>