先祖や故人を供養をしようとするときは、日々のお供え物と法事(法要)をしていれば十分だと思われている人が多いようですが、真実は大きな間違いです。仏教はキリスト教と故人に対する考え方が異なった方向性をとっており、法事(法要)やお供え物という決まりごとがありません。そこで供養で一番大切なことを説明していきます。
供養は仏教の教えが正解ではない
供養についてはキリスト教などと仏教では全く考え方が異なり、キリスト教では「死者は神に召されるもの」「死は新しい生活への祝い」などでミサであったり集会であったりしましても、だいたい一年の周忌祭で落ち着くもので、日本のように故人を成仏させるために供養したり法事などが定期的に執り行われるといった違いがあります。
念のため、キリスト教では故人への考え方が違うので供養というものは存在しません。
日本の仏教にも宗派によって故人に対する考え方は異なるもので、お仏壇の必要性を唱えない宗派や葬儀に僧侶を呼んで読経や戒名を必要としない宗教団体・即身成仏という考え方を基本にする宗派など様々であるといっていいものです。
ということで、実は仏教による故人の供養に対する考え方には統一感がないので、単一な宗派の教えは別として仏教全体から判断しますと、故人の供養に対しては仏教の教えが絶対という確立したものがないのが現実なのです。
日本国内においての供養の仕方が慣習化されているだけであって、見えない世界のことを誰も疑わずに法事(法要)やお供え物をしてれば大丈夫と信じていているに過ぎません。
これは葬式仏教といわれる宗教団体や葬儀社などの利益優先の目的から、国内全体に強く定着してしまっているだけです。このことは江戸幕府ころからのお寺の政治利用が影響しているともいわれています。
このように宗教の死への考え方や故人への考え方のちがいは、供養の必要性を覆すものと考えます。日本の葬式仏教の考え方でないと成仏しないのであれば、キリスト教やイスラム教などの信者は成仏できないことになり、そんなおかしな流れはありえないものになるということです。
葬式仏教とは、本来の宗教の在り方から逸脱した葬式や法事などを主軸に運営している宗教のことをいいます。
供養で一番大切なのは『心』であり『想うこと』
このような題名をつけますと固定観念の強い人は疑問に思うかもしれませんが、このことは霊的な世界を知ったものなら分かる事実です。
人が亡くなるとどうなるかという色んな情報が飛び交っているようですが、人は亡くなっても肉体がないだけの存在であって、一般的には生前とあまり変わりません。
このことから説明させて頂きますと、『心』や『想うこと』をせずに形式的にお供え物を供えたり僧侶を呼んで読経してもらっても、故人の霊はそれほど嬉しくもないのです。
お供え物をされたりお仏壇に手を合わせたりお墓参りに行ったりすることが意味のないものと言っているのではなく、そこに至るまでの気持ちの方が大切ということです。
一般的に私たちひとりひとりが供養という形式は知っていても、意味をしっかり把握されていないことから、お仏壇にしてもお墓にしても向かうことで故人への意識や想いが向くといったことになるので、意味がないのではなく意味があるとお伝えするところです。
このようなことから、供養というのはモノ(仏壇・位牌・お墓など)に頼らずとも僧侶に頼まずとも意味を分かっていれば、『心』や『想うこと』で平時から何処でも供養というものはできるのです。
念のため、故人の霊は思念を受けって瞬時に理解も近くに来ることも可能です。
お仏壇やお墓がなくとも故人に対して『心』や『想い』を向けることが、結果的には供養の真髄であることは間違いのない事実です。
日本の供養の仕方は変わっていく
日本は少子高齢化に歯止めが利かず、今後は貧富の差も顕著に表れてくると思われます。
それらによって、お墓などによる考え方や法事などの習慣が未来に繋がれていくとは想像もつきません。
そうなったときに故人は成仏できるのかということに繋がりますが、供養の基本は仏事ではなく、これまで書いてきたことを実践なさられれば大丈夫です。
結局のところ、成仏云々というのは故人の意思や意識が一番なもので仏様にお願いするものでも僧侶にお願いするものでもないということです。
私からみますと、現代の葬式にかかる高額費用や戒名の僧侶のランクによる価格の上昇・仏壇にかける費用など葬式仏教ならではのバカげたものであり、遺族の自己満足でしかないことです。
さいごに
これからの時代は、故人への供養などの考え方や方向性が変わっていくものとして、一人でも多くの人に真実を知って欲しくて書かせて頂きました。
このことは現代でも通用しますし、供養とはどういうものかということを説明させていただきました。
では、この辺で終わります。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました<(_ _)>
ビッグマム 様
息子様は1カ月半もよく頑張られましたね。
葬儀の件ですが、お葬式というのは葬式仏教という慣習が根付いているだけで他宗教のキリスト教やイスラム教などを見ても分かりますように、読経しないと故人にとって影響があるのかといいますと全くありません。法事というのは形式的なものであって故人の死後の世界に影響するものではありませんが、故人が亡くなったことを自覚したり残された親族が供養に意識を向けることによって故人を忘れないという意味合いの方が強いものです。形がちがっても故人を送るためのお葬式をされたのでしたら問題ありません。慣習的な法事をしないと息子様が彷徨うといったことはないので安心して下さい。
少しでも息子様に対して供養になるために必ずしておかなくてはならないことは、毎日息子様を想い心を向けることです。そのときに「生まれてきてくれてありがとう」「来世も一緒にいようね」「愛してるよ」「大切だったよ」など、息子様の存在を肯定することを心の中で言ってあげて下さい。もう一つは供養として毎日お水や食べ物を位牌の前に供えてあげて下さい。(30分も置けば大丈夫です)
息子が自殺未遂を起こして
一ヶ月半の間、病院で意識不明でしたが
先日、息を引き取りました。
イトケンさんにはその際も相談にのっていただいて、ありがとうございました。
そしてその息子の葬儀を執り行うのですが、
私共は無宗派で
お寺さんも無くて
息子はまだ21歳でしたので
私達もお葬式を自分達で出すなんて初めてで、何が何やら‥
葬儀に参列して頂けるのは
ほとんど息子と同じ位の若者で
コロナ予防もあり、
一日葬でお坊さんも呼ばない形で送り出す事に決めました
息子の好きだった音楽を流して
お花と友達で囲んで‥という
キリスト教のスタイルのような感じです
戒名は49日までにどうするか考えようと思っています。暫くは遺骨も家に置いておく予定です。
葬儀の形については
祖父母らの意見も交えてみんなの納得のいくようにと思ったのですが
死んだ息子が少しでも喜ぶように
息子らしいお葬式にしようという事で意見が一致して、そう決めました。
だけどやはり今頃になって
葬儀に読経が無くていいのだろうか‥
と思う気持ちも出てきたりしています。
イトケンさんのブログで
心が大事、位牌が大事と仰っているのを見て少し安心してはいますが、
そのような形でも息子は彷徨わないでしょうか?
自死ということもあり
そう簡単には上に上がれないという事も承知してはいますが、少しでも息子の供養になる為に必ずしておかなくてはならない事はありますか?
みき様
こんばんは。いつも嬉しいお言葉ありがとうございます。
いいタイミングでブログを書かせて頂けたことは本当に良かったです。
もうご主人様の3回忌なのですね。本当に生死を越えて仲の良いご夫婦という印象を受けます。
そのご主人さまに対するお気持ちは十分伝わっていて喜んでられると思います。
ブログを読んでいただいたみき様にも、お導きを頂いたご主人様にも感謝ばかりです。
こちらこそ、嬉しいご報告をありがとうございます。
みき様も、これから本格的に暑くなりますがお身体ご自愛下さい。
イトケンさんお忙しい中ブログの更新ありがとうございます。
今回の内容で又、心が救われました。
本来なら今年5月主人の3回忌をする予定でしたが、コロナの影響で中止にしました。主人はそんな事には拘らないだろうと思いながらも何か気になっていたので今回のブログを読ませて頂きホッとしました。
主人に対する気持ちは溢れる程あるので主人もわかってくれてると思っています。
このタイミングでのイトケンさんのブログを拝見したのも主人が導いてくれたのかなと思っています。
ありがとうございます。
お体大切になさって下さい。