神仏に関すること

毎日真言を唱えても何も変わらないのはナゼ

この世には毎日一生懸命に真言を唱えても僅かとも期待するほど何も変わらないこともあり、疑問や虚しく感じることもあると思いますが、そこには意味や理由があることについて説明いたします。

 

はじめに

先日、知り合いの行者さんと話す機会があり、毎日一生懸命に真言を唱えているのに除霊も出来ないといったことを伺いました。

 

事の発端は、イトケン自身が神仏に対して毎日真言を唱えているわけでもないのに、除霊が出来たりするのはオカシイといった疑問でした。

 

そこで、なぜ真言を唱えても何も変わらないことがあるのかについて、書いてみようと思います。

 

真言を唱えて何も変わらない理由

ここでは、何も変わらない理由についてピックアップしてみます。

 

1,仏様との道がつながっていない

これを書いていいのか迷いましたが、お寺であっても仏像と仏様の道がつながっていないこともあります。

 

そのほかに、拝む人と対象の仏様との道がつながっていない。

 

2,帰依による方向が違う

帰依(きえ)とは、すがる・頼る・拠りどころ、といった意味です。

 

そこに除霊や法力といった荒々しいものは与える人を選び、普通は信奉者の欠点を克服して心の状態を変えることにあります。(真理の学び)

 

つまり、何か形として現れるものではなく、内在する魂(神や仏)を成長させるために、仏様の御力や導きを仰ぐためのものであるということ。

 

3,何らか有形無形のものを求めない意(心)

真言は、様々な見解や書を鵜呑みにするものではない。

 

迷いや惑わされる心を拭い去らないと、前には進まないものである。

 

4,多少でも欲をもつものではない

欲というと、浅ましく感じますが、ここでは純粋な気持ちで向き合うことをいいます。

 

仏様には心を見透かれてしまうので、欲をもつと距離があいてしまうことになります。

 

5,普段の行ないが関係する

いくら毎日一生懸命に真言を唱えても、普段の行ないが悪ければ意味がありません。

 

深酒・邪淫・所作などが悪ければ、いくら唱えても徒労に終わる。

 

真言を唱える目的や願いがある場合

他力本願な考えで真言さえ唱えていれば、何らかの力を授かることが出来るというものでもありません。

 

一番わかりやすいのが・・・

 

お坊さんは毎日たくさんの真言を唱えますが、みなさん除霊が出来たり法力が使えるかといえば違いますよね。

 

経典のなかには、平和など様々な祈願の内容も含まれていて、それらも唱えられていますが、世の中が平和かといえば違います。

 

つまり・・・

 

真言を唱えることは、人間の意識のなかで何らかの結果が見えるものではなく、内在するものに影響を与えます。

 

もちろん、それが降りてくる言葉となったり直感に働きかけてくれることも、気が付かないだけであります。

 

そして。。。

 

人にものを伝えるときに具体性が必要になってくるように、仏様に対してはより具体的な目的の理由や願いを詳細に伝えないといけません。

 

仏様ですから、心は見透かしてられますが、それでもそうするのが礼儀です。

 

さいごに

真言を唱え続けることによって仏様とつながることは、自分だけでなく子孫にも功徳が得られるものです。

 

正しいことを続けることに、無駄ということはありません。

 

何も変わらないと感じたり、嫌なことが起きたりすることもありますが、必ず最後の最後には手を差し伸べて下さいます。

 

悟りを開くことが、人間として生まれ変わりの最終目的かもしれませんね。。

 

 

それでは、このへんで終わります。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>