死後の世界

死後の魂の記憶と来世への影響

死後は生前の時より鮮明に魂の記憶がよみがえり、自分が生きた軌跡を走馬灯のように見ることになります。死後の魂の記憶がどのように来世に影響していくのかなどについて説明させていただきます。

 

はじめに

人間は死ぬと「無」になるという説がありますが、それはそのような亡くなった人の存在が見えないか実際に関わったことがないために言われていることは明らかなものです。

 

当ブログの管理者は人に憑依した様々な霊と対話した経緯から、人は死んでも魂は残り生前の記憶を持ち続けることを否応なく知っていくことになりました。

 

そして生きた軌跡は、死後に自分の人生のドラマを客観的に見ることになり来世の自分の境遇に大きく影響を与えていくことについて書いていきます。

 

死後は生前の記憶が鮮明になる理由

人は死ぬと生前の記憶がナゼ鮮明になるのか不思議と思われることでしょう。

 

生前の記憶(軌跡)が残る・・・死ぬ直前までの記憶が残ることは多くの未浄化な状態の霊(故人)になったものも申しておりました。

 

なぜ死んだ方が生前の記憶が鮮明になるかというと、簡単にいえば肉体といった邪魔をするものがないので観念が変わるからです。

 

観念とは。。。物事を深く考えること、物事に対してもつ考えなどをいいます。

 

肉体がないということは五感といった視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚が基本的になくなり、魂本来の思念中心といった感覚になるために記憶が鮮明になるのです。

 

五感が基本的になくなるというのは、肉体での感じ方がなくなるために変わるだけで完全に消え去るものではありませんが、ここでは割愛させていただきます。

 

もう忘れているようなことも映像として蘇るため、各々の故人の生きてきた軌跡が良いことも悪いことも今度は客観的に見ることにもなります。

 

それはまるでドラマを見ているかのように一から十まで人生の全てを事細かにというよりも、各シーンごとのような感じでしょうか。。。

 

詳しくは個人差があるので何とも言えませんが、このような感じのニュアンスです。

 

魂に刻まれた記憶が来世に影響する

生きた軌跡をドラマのように見るということは、良いときのことも悪いときのことも見るので懐かしむこともあれば見たくないシーンも当然に流れます。

 

とは言いましても、死んだらすぐに映像を見るのかといえば少し違って死を自覚して強い念(未練や執着など)がなくなったときに見ることができます。

 

何らかの強い念をもっていますと、そうしたものが中心になってしまいインパクトある映像が強く余裕がないので見ることもできず、鈍重な肉体でも有ったときのほうが楽だとさえ考えるのです。

 

肉体があると痛みも怠さもある反面に、食べたり飲んだりネットサーフィンしたり寝たりして何か誤魔化すことも僅かでも出来たものがないので、強い念は増幅し思念中心の毎日に余裕を持つことが出来なくなります。

 

そうしたこともやがて落ち着いてきて人生の記憶がよみがえってきますが、どうしてもインパクトの強いところに差し掛かると苦しみ悶え、時として自分を見失うほどにおかしくなるのです。

 

少し話は逸れましたが本題に戻しまして。。。

 

魂に刻まれた記憶をドラマのように客観的に見ることになりますと、自分の行ないのすべてが第三者のような視点で見ることになるのです。

 

自分の悪行も本人目線では死ぬまで気付かなかったことも、客観的に見ると目を伏せたくなったり自身に対して苛立ちを覚えることもあります。

 

もちろん死んでも何も気付かなかったり感じないといった愚かなものもおりますが、これらのものはマトモな魂と同じ場所にいることも出来ず、同類ばかりのいるところで同類に対して悪行を繰り返すことになります。(魂の引き寄せの法則があります)

 

たとえば性(不倫・性依存など)に溺れたものは同じような種類のものと貪り合いますが、自分が性行為に飽きても相手が離してくれないのでやがて苦痛になるといわれています。いささか羨ましい世界のように感じますが、何事も満足を越えると苦(悪夢)でしかなくなるものです。

 

魂の引き寄せの法則は人間社会でも同じように「類は類を呼ぶ」ものと同様と考えていいものですが、魂の世界においては被害者は同類の集団内に限られますので、人間の社会のように関係のないものが巻き込まれることはありません。

 

 

生前の魂の記憶を走馬灯のように映像化して見ることで多くの魂は生きてきた軌跡に後悔や反省をするため、人間の世界に生まれる現実を自ら突きつけられるような形をとってしまうのです。

 

その多くは生まれる目的が何だったのかを悟り、再度同じような境遇を望んだり、悪行を犯してしまったものは自らが劣悪な境遇に身を置いて報いを受けようとします。

 

いまある環境や境遇は偶然なものではなくて、自らが歩んできた前世の軌跡の結果でしかないことは仏陀(ブッダ)の教えとも共通するものです。

 

ここで一番大切なことは終焉(しゅうえん)のときに自分がどうなっていたかが大切ということです。

 

終焉とは。。。命の終わり・死を迎えることをいいます。

 

※結果よければすべて良しといっているのではなく、自分が人生の波を越えてどう成長したのかということをお伝えしているのです。

 

成長が人間の愚かな考えである裕福な生活が出来たとか幸せに暮らせたとかではなく、如何に荒波を越えて心豊かな魂を築いたかなのです。

 

要するに魂の学びと気付きというのでしょうか。。。

 

肉体のあるものは金品など物質的なもの(地上限定のもの)が生きる全てと勘違いしていますが、本来は輪廻転生における成長の1ページをどのように描いたかなのです。

 

さいごに

私たちが人生を歩むということは、過去世から何らかの因縁をもっており降って湧いたものではないということです。

 

辛苦を伴う境遇は必ず意味があるものであり、避けて通れるものではなかったと認識して欲しいと願います。

 

そうしたことに少しでも気付いて、今世を乗り越えていって頂きたいと思います。

 

それでは、この辺で終わります。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>

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