あるとき突然に死別という形で親との別れがやってきて親孝行について考えることがあると思います。恩返しをすることができないと思ったり、色んな贅沢をさせてあげることができなかったと後悔したりします。しかし本当の親孝行というものは、もっと身近で誰にでもできることであるということを説明させていただきます。
本当の親孝行をしたければ親の立場になるべき
親に育ててもらったという感謝の思いから恩返しとして親孝行をしたいと自然に思うものですが、この親孝行をすることに対して基準もないので誰もが間違っていないですが、勘違いしてしまうことが多いように思います。
親が元気な時には各々が思い描くような親孝行をすれば良いのですが、突然親が病気になったり急に旅立ってしまったときに、どうしても後悔しがちなものであると考えます。
しかし自分が親の立場に立って考えてみると、子供が親(自分)に対してしてくれることに贅沢をさせてくれたり旅行や美味しいものを食べさせてくれたりするようなことは、親の立場として嬉しいが本来子供に望むものは違うはずです。
人それぞれ多種多様なので、子供が稼いでいたら親に恩返しするのが当然と思ったりする人がいることも否めなくはありませんが、それらのお考えの人には本記事は参考にもならないものと思います。
本来、親が子供に望むことは、いくつになっても元気で平穏に暮らしていけることであったり子供の幸せを望むもので恩返しなどではありません。
ですから親孝行を考えるときには、「もし自分が親だったら・・・子供に何を望む」のかということを考えて欲しいのです。
大切なご両親から生まれてきて育ててもらった経緯から、よほどのことがない限り親と考え方の基本は似るものですから、親の心を考えるときに自分が親の立場に立ってみることが最善と言えます。
死別しても親子関係は継続するもの
おおまかな話になりますが、多くの人が人は死ねば終わりと考えたり全くの異次元に行ってしまったと考えるようですが、「死」というものは人間の肉体を脱ぎ捨てただけの魂(霊体)本来の姿に戻るものでしかありません。
ですので、亡くなっても肉体がないだけで生前と変わりのない姿を継続するものです。
たしかに霊の世界が長くなってきますと、人間の世界で気付くことが出来なかったことに気付いたり霊的な考えが出来るようにもなっていきます。
しかし僅かな期間に霊的な感覚が即座に理解できるものではなく徐々にといった感じで、驚くほど生前と変わらない性格や考え方などを長期間維持します。
このことから親子の関係は生死を越えて継続するものであり、親孝行も死ねば終わりでなく供養という形であったり子供である自分を先立った親が見てくれていて、どう過ごしていっているのかということが大切になっていくのです。
死別して悲しむことは良くないの?
親が亡くなって悲しむのは当然の感情で良くないことではありません。
それに親子が互いに大切に思っているのでしたら、亡くなった親も霊の世界で悲しんだり心配していても然りなわけです。
先ほども説明しましたが、亡くなったとしましても生前と変わらない状態でおられ痛みや苦しみというものからは解放されて、元気な状態でおられることが一般的です。
少し話は逸れてしまいますが、諸外国において他の宗教的な考えでの「死」というものは新たな旅立ちであったり霊的な世界へ戻った、または神に召されたという祝福の意味を成すことが多いものです。(とはいえ死という別れを悲しむのは国を越えて同じものです。)
日本の仏教的な考えでいう死とは色々と複雑なように解釈しているように感じますが、本当は至ってシンプルなものです。
ここで話を戻しますと親がなくなるということは悲しくて当然のことではあるのですが、やはり時間とともに親は肉体が無いだけで存在していてるので、残されたものとして立ち直っていくことも供養のひとつになるのです。
あまりにショックで立ち直れなくなって苦しみ続けたり、後を追うようなことを考えるようでは、親として霊的な世界で心配になり成仏どころの話ではなくなってしまいます。
一般的に私たちからは存在が見えないし感じることが出来ないことが多いものですが、逆に親からは子供たちの姿はよくわかってられます。
ですから悲しいのは誰も同じことなので、「生あるものは何れは旅立つもの」として理解し、自分がこの世の生を全うしたら親と再会できるので、それまでの期間は我慢して乗り越えていこうという気持ちも大切なことになってくるわけです。
本当の親孝行
あのテレビ番組でやっていた「一休さん」というアニメの主人公の一休宗純さんですが、室町時代の臨済宗大徳寺派の禅宗の僧侶であり、あるとき信者の一人から何かめでたい言葉をとお願いされたところ・・・
『親死 子死 孫死』
と書かれたという有名な話があります。
これを書いてくれと頼んだ信者はカンカンになって怒るわけですが、ここで一休禅師は「ほほう、お前のところでは順番が逆の方がめでたいのかな?」というようなことを言ったそうです。
何が言いたいのかと申しますと、親なら誰もが望む当たり前のことですが、親は年老いた自分よりも子供や孫には先に死んで欲しくないということであり、そのことだけでも本当はめでたいというものなのです。
しかし現実には、子供や孫が病気や事故・自殺で亡くなることも少なくないこと、懐妊してこの世に生まれて来てくれるのを楽しみに10か月待ちお腹を痛めて出産し、たくさんの愛情を注いだり一生懸命育てて何とか社会に出て一人前になるようにと願って頑張っていくわけです。
ときには自分を犠牲にしても子供を守ったりもするのです。
その大切に育てた子供が、自分(親)の死によって苦しんだり悲しむ姿を長い期見続けることは耐え難いものなのです。
ですから、子供が親に対して親孝行をしたいと思う気持ちは親としても嬉しい限りで育てて生まれて来てくれて良かったと思うのですが、親が望むことは子供には一日でも多く幸せに過ごして欲しいことや苦労しても荒波を乗り越えていける強さを見せて安心させて欲しいと願うのです。
親が生きていようが他界してしまおうが、子供に望むことは年齢問わず子供の成長している姿でしかないということです。
余裕があれば親孝行として物質的なものやことを思いの程尽くせば良いと思いますが、本当の親孝行とは物質的なものではなく、子供であるあなた自身が天命を全うすることでしかありません。
さいごに
今回は、大切な親との死別によって苦しむ人の参考になればと書いてみました。
どんな形でも死別というのは悲しいものですが、霊的な世界からいえば「人の一生というものは一瞬の出来事」で地上という人間の世界から永遠の霊の世界に帰ったということでしかありません。
ですから親と死別しましても必ず霊の世界で生きていて、また寿命がくれば再会を果たす日が来るということを楽しみにしていて欲しいと思います。
では、この辺で終わります。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます<(_ _)>