生きていたら必ず出会いがあり別れを迎えるときが訪れますが、愛する人や大切な人との死別ほど悲しく苦しいものはありません。しかし遺された人は、その旅立ちによって教えてくれたものに気付くことが大切です。
人の死には、必ずといっていいほど遺された人にとって、何らかの意味が隠されています。
よく『人の死を無駄にするな』という言葉があるように、本当に愛する人は悲しませるために遺された人に出会ったのでしょうか。。
辛く悲しみが深いかもしれませんが、死別が教えてくれるものについて、説明させていただきます。
死別が教えてくれるもの
死とは儚いもので、文字の通りで人(ニンベン)に夢と書き儚いと読み、人の人生とは無常ということを表わします。
生まれてきたり出会っても、人生のなかで必ず別れがセットになっています。
もちろん、愛があれば死は一時的な別れで死後も繋がっていけるのですが、見えない世界のことは半信半疑であって当然のことと思います。
今回は、それよりも現実的な死別が教えてくれるもの、ということについて続けていきます。
1、死とは、命の尊さを知ること
当り前のことを書きますが、誰もがいずれ死に直面することになる。
人間として、肉体を携えているあいだしか出来ないことが数多くある。
家族関係・恋人・友人との関係も、無常(永遠不変ではない)ことを再認識し、遅かれ早かれ死という別れが訪れる。
2、人生を見つめ直すきっかけ(死生観)
死生観とは、死別や死の境を彷徨ったりすることで、生きること死ぬことに対する考え方のことをいいます。
命というものは、本当に呆気なく終わりを迎えるから、これまでの自分の生き方でよいのか、見つめ直すきっかけとなります。
身体が元気なうちに、やるべきことなどが見えてきたりします。
生きるということは、命に限りがあることを悟り、自分に与えられた時間を大切に使うことを考えるようになる。
死ぬということ、死後の世界感に対しての意識が変わる。
3、なぜ自分のところに生まれて来てくれたのか?
魂が肉体に宿る競争率は、受精のごとく一体だけが望んで出でるものではありません。
つまり、人間の数にも増して、再生を望む魂は数知れず存在しています。
そのなかでママを選んで生まれてくる意味を、必ずもって生まれます。
子供は親の糧なる存在といわれるように、子供だけが一方的に育てられるのではなく、子供からもたくさんの学びがあります。
それが我慢であったり、苦労であったり、感動であったり、別れであったり、各々に形は違えど親自身にも必要な学びを与えてくれているものです。
死別は辛く悲しいものですが、意味もなく偶然に生まれて来たのではないことを、少しでもわかってあげることも大切です。
4、死に対する名言
〇人は死ぬ。あたりまえだ。(釈迦)
〇生と死の両極を見極めないで、人は徒に嘆き悲しむ。(ブッダ)
〇死とは人生の続きであり、また人生を完成させるだけでなく、体をお返しするに過ぎないのです。しかし心と魂はずっと生き続けます。死なないのです。(マザー・テレサ)
〇生まれるということは死ぬという約束であって、死も格別驚くことではない(福沢諭吉/旧一万円札の人)
〇死というものは、実は人間にとって最大の祝福かも知れない(ソクラテス)
〇いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん(孔子)
〇世の中は食うてかせいで寝て起きて さてその後は死ぬばかりぞ(一休さん)
〇死とは、今いる部屋から別の部屋に移ることに過ぎません。ただ、私にとってはそこにも違いがありますけどね。その部屋では私は見ることができるでしょうから。(ヘレン・ケラー)
さいごに
人の一生は儚いもので、夢の如し幻の如く短い期間です。
生まれた時から、個人差はあっても、死のカウントダウンは始まっています。
死別を乗り越えて、故人を安心させてあげたり、忘れ去ることなく心通わすことが、故人への本当の死を回避することとなるでしょう。
まれに、死別することが遺された人にとって最善という関係もありますが、何らか意味のあるものにしていただければ幸いです。
それでは、この辺で終わります。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>