日本は死ぬととかく費用がかかりますが、本当に成仏するにはお金必要なのか?死んでから葬儀法事など成仏と関係しているのか否かなどについて説明させていただきます。

 

はじめに

日本は世界屈指の低福祉重税国家になり、家族や親族が亡くなったときに費用が捻出できなかったり負担が大きい家庭も増えつつあります。

 

そこで本当に人が死ぬと慣習に倣(なら)って、葬儀や法事などを行なわないと故人の霊は成仏しないのか否かについて現実的なことを説明させていただきます。

 

お坊さんでもないブログの管理者がこんな仏教のことなど分かる訳もないになるかもしれませんが、当管理者は神仏や死後のものたちなどとの関わっている経緯からお伝えしています。

 

。。。というよりも仏教は本来奉仕するような側面が強く、近年のお坊さんは『僧侶業』という商売のほうが大きく違和感があると感じます。

 

それでは、説明に入らせていただきます。

 

現代の仏教と成仏の考えは異なるもの

葬儀・戒名・法事といったものは、前述しましたようにお寺やお坊さんの大事な収入源の方向が強いものです。

 

もちろん、寺や仏像維持などのためには托鉢だけですと衰退していってしまいます。

 

昔は幕府や大名また武家がお寺の維持する資金を負担していたが、財政的にキツいので衆生に負担を転嫁していった経緯があります。(簡単な説明に留めます)

 

そういった流れで安定した収入や大きな収入をと考えられたのが、檀家制度や死に関する葬儀や法事といったものだったんです。

 

つまり、一般大衆には未知な世界である故人の成仏と儀式を結びつけることを慣習化させ、安定的な収入の確保を目論んだのです。

 

それゆえに、日本の仏教には死ぬとたくさんのお金がかかるようになったのです。

 

早い話、遺骨を拝んでも魂が入っているものでもないですし、戒名で高いお金を払ってもお寺やお坊さんが喜ぶだけで故人にとっては成仏になんのメリットもありません。

 

法事についてですが、近年は来てくれたお坊さんにお布施の他に豪華な食事を召し上がっていただくか御膳代を渡したり御車代を渡したりと何様状態でもてなすわけです。

 

こんなボッタクリなものは他宗教にはないもので、お寺の維持管理とはいえ生臭坊主(なまくさぼうず)を大量に生むだけのものとなりました。

 

※生臭坊主とは、戒律を守らない品行のない僧侶・堕落した僧侶のことをいいます。

 

このようなものにお経を唱えてもらっても何も有難くもなく、故人が少しでも成仏に近づくようなものではありません。

 

唯一効果があるとすれば、葬式をしたときに他界した人が自分が死んだ儀式をしていることに気付く程度のものぐらいです。

 

かなりディスっていますが、お寺関係者や僧侶には本来の仏教というものに目覚めて欲しいといった願いがあります。

 

成仏にいくらお金をかけても意味がない

ズバリ申しますが、何百万でも何千万と故人にお金をかけても火葬の費用や形だけの葬儀で済ませても故人の成仏に対しては全く同じです。

 

お仏壇が豪華であろうが質素であろうが故人にとっては無意味で、遺族の自己満足の範疇でしかありません。

 

お墓も高級な墓石を使っても合祀墓であっても、故人の成仏には一切影響しません。

 

なぜならば、死後の世界は物質的なものには価値がなく心が優先するからです。

 

豪華に故人にしてあげたいという思いは故人もお喜びになられますが、人間の見た目やステータスに反して故人の供養や成仏の観点からは異なります。

 

戒名なくても成仏や死後に影響なし

本当に戒名ほど意味のないものはありません。

 

例えば、キリスト教に戒名あると思われますか?

 

他宗教にも戒名なるものはありません。

 

宗教によって考え方が違うように、新興宗教になれば尚違った発想であったりするわけで何が正しくて何が間違っているレベルではありません。

 

戒名なるものが始まったのは、せいぜい江戸時代ぐらいからのもので、それまではなくても問題なかったのと同様です。

 

さいごに

成仏に関しては、故人の問題であり生前にどれだけ未練や執着を残して旅立たなかったかが大切です。

 

遺族がどうしようが故人の心が変わらねば成仏は叶わないものとなりますし、いくら遺族が何とかしようとしても限られています。

 

生きるも旅立つも、最後は愛情や心が勝ることに変わりはありません。

 

それでは、この辺で終わります。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。m(_ _)m