死の淵を彷徨っている状態の意識不明や危篤のときであっても声を上げれば届くことがあり、医学的な見地からしますと根拠はありませんが、霊的な分野で声を掛けることの大切さについてお伝えします。
はじめに
危篤状態に声を掛けてたら何となく動いた気がする、涙を流したなどといったものを目にすることがあります。
それはどういう意味なのか、少しでも参考になればと思い書かせていただきます。
意識不明や危篤の状態について
危篤や重篤な状態の場合は、生命の危機に瀕している状態のことをいいます。
基本的に死の淵を彷徨うような意識不明や危篤というのは、肉体に意識がないので微動だにしない状態に陥っています。
そうした状態は、かろうじて肉体と魂が僅かにつながっており、魂が完全に抜けると身体の機能も停止していくことになります。
危篤の状態でも声は届く?
このような状態のときに声を掛ければ聞こえているのかといえば、意識がないので当然に耳の機能も麻痺していて聞こえていません。
では、なぜ反応するようなことがあるのか?
それは肉体が反応しているのではなく、魂が呼応することによって肉体に反応を起こすことがあるからです。
ん?魂?となるかもしれませんが。。。
人間は五感でしか反応できないと思われるでしょうが、以心伝心といわれるように『人には念というものが伝達手段』としてあります。
わかりやすくいえば、神社に行ってお願い事をするときに、手を合わせて声を出さずに伝えるアレと同じようなものです。
それとか相手が電話しようとしていたら、何となく相手のことを思い出していたなど。。
では、意識不明や危篤の状態でも声を掛ければ必ず届いているのかといえば、それも人によって異なります。
声が届く場合もあれば届かないことも、もちろんあります。
声が届く届かないは関係性が重要
先ほど書きましたが、『以心伝心』という念があるとお伝えしました。
じゃあ、誰でも声が届くとは限らないと書きましたが、その違いは何なのかを説明します。
これが通ずるのは、心と心が通じ合っている関係が要件としてあるのです。
たとえば、夫婦・親子・親友・恋人などが思いつくところですが、言葉を交わさずとも思いが伝わる関係ということです。
険悪な関係や惰性、肉欲を恋愛と勘違いした関係といったものは、危篤状態に声が届くことはないように感じます。
心の通う相手なら声は届きます
最初に失礼なことを書きますが、危篤の状態の人に声が届いたからといって、意識が戻るとは限りません。
ただ、一生懸命に声を掛けてくれたことは、旅立っても覚えてくれています。
声を掛けて意識が戻るか戻らないかは、その危篤状態の人の宿命(寿命)にも関係します。
若くても年老いていても寿命であれば戻って来ることは出来ず、死期が先であれば声を掛けることによって戻ってくることもあります。
たまに三途の川を渡ろうとしたら、声が聞こえて戻ってみたら生還したといったことが実際にあるものです。
危篤のときは声を掛け続けるのが望ましい
こうした状態におかれますと、病院の中や自宅といった場面が多いと思います。
発声して声を出し続けることが厳しいときには、喉を使わずに叫ぶと良いです。
信じられないでしょうが、友人が死神の使いというものに連れて行かれた時の話をしますと。。。
連れて行かれた直後に、意識がなくなり揺すっても叩いても微動だにしないことがありました。
それが深夜の自宅ということもあり、声を張り上げる訳にもいかず、声を出さずに叫び続けたのですね。
そうしたら戻って来たのですが。。
「真っ暗闇で何も見えず、声が聞こえてきたので声のする方向に歩いていったら戻って来れた」ということがありました。
このときに声を発しなくても、念が声となって届くことを覚えたわけなので、こうしてお伝えしているのです。
さいごに
できるなら大切な人が意識不明や危篤な状態に直面したくありませんが、人間はいつか必ず旅立ちのときを迎えます。
叶うなら、生還して欲しいと願うこともあると思います。
そうしたときのために、少しでも参考になればと思い書かせていただきました。
それでは、このへんで終わります。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>