仏様は人間とちがって広い心をお持ちなので、人の行ないだけで好き嫌いを判断することはありませんが、仏様が手を差し伸べて助けてもらえる人には条件があります。
仏様は人間に計り知れないほどの、慈悲深さと平等の心をお持ちです。
しかし、人々に対して平等の視点をお持ちであっても、助けてくれる人と静観して無反応なこともあります。
どのような人が、仏様に助けられるか下記にて説明させていただきます。
仏様に助けてもらえる人
⑴、清浄な心をもった人
清浄とは、心が清らかで穢れ(けがれ)がないことを言います。
仏教では、煩悩や悪い行ないがなく、心清らかな人のことになりますが、現世で煩悩や悪行が全くない人はいません。
じゃあ、これは誰にも当てはまらないのかというと、そこまででなくとも根本が汚れきってなければOKです。
もちろん、不倫中とか人を騙したり傷付けたり、生き物を殺したりを平気でする人は、論外というのはわかると思います。
⑵、感謝の心をもち続ける人
だれでもしてもらったことに、瞬間は「ありがとう、感謝です」という気持ちをもつことはできますが、それを忘れない人は少ないかもしれません。
感謝したら同じやんと思うかもしれませんが、感謝の心をもち続けるということは、これを仏様でなくとも他者に還元する心が芽生えることが大切です。
⑶、対価と代償を考えられる人
仏様であれ人であれ、してもらったことには、代償が発生するということです。
わかりやすくいえば、お金を借りたら返さないといけないように、行ないには対価(それに見合う同等の価値)を代償として出さねばなりません。
スピリチュアルでは、乞食(他力本願)思想が一般的ですが、人であれ仏様であれ施しは無償ではないのです。
病気を治してとお願いして叶えば、仏様や霊能者に返すのではなく、その対価は如何にと考えるべきことになります。
代償を怠ってしまいますと、相応の代償を自分や家族などが背負わねばなりません。
⑷、それがきっかけで成長できる人
これは対価と代償の代わりのものとして、状況によっては助けられた人が、考え方が良くなったり改心するキッカケとして、成長が対価となりうるものです。
見えない世界の現実を知ることも然り、人の思考や視点が広がることを目的とするということもあります。
⑸、利他愛をもつ人
利他愛とは、自分の利よりも、他人の幸福や利益を優先させたり願うことをいいます。
これは、仏様のお考えと一致するということから、道がつながりやすくなるということにもなります。
なんで、仏様が何も徳をしないのに、助けて下さると思われるのでしょうか。。
それは人々を救うことによって、その人たちが成長したり平穏になることが、何よりの喜びであるからです。
利他愛の人間は、仏様からも守ってもらいやすいと言えます。
⑹、先祖に功徳のある人
この世は、因果応報が付きまといます。
自分だけでなく、先祖があまりある善行を行なっていた場合に、仏様の慈悲が子孫に反映することが考えられます。
私の場合は、先祖が高野山を熱心に信仰していたおかげもあり、先祖の恩恵から高野山の仏様から御加護を授かっている一面があります。
そうでなければ、こんな適当な人間に、不思議な力が使えるわけはないと思っています。
これは守護霊らしき存在からも、お伝えいただいています。
⑺、信仰心のある人
信仰心とは、神仏や宗教を信じる人のことをいいますが、すべての新興宗教に対しては当ブログの見解を除外いたします。
要するに、仏様の存在を信じる心や信仰心が、道を繋げることにもなります。
単に、自己都合で手を合わせて、祈願するのも少しちがうでしょうね。
つながりがあるからこそ、日頃から向き合っていることで、大難が小難で済むこともありますが、一律に背負うべきものは静観して背負わされます。
さいごに
ここまで書かせて頂いたものは、すべて経験と浮かんできたものをあげてみました。
少しでも参考になれば、幸いに思います。
それでは、この辺で終わります。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>