神仏のこと・神社仏閣など

神仏と繋がりたいと願うならば・・・

スピリチュアルに興味のある人からすれば神仏と繋がりたいと願い、どうすれば神仏と繋がりをもてるのかという疑問について書いていきます。ただし、このようなことは積み重ねや心の在り方が重要であるということも説明させていただきます。

 

神仏とは本当に存在しているの?

神仏も霊も魔も一般にはあまり知られていない魑魅魍魎(ちみもうりょう)と呼ばれるものも、この世には存在しています。

魑魅魍魎とは。。。一般にいわれる妖怪や化け物で人の念が固まった集合体であったりもします。

今回は神仏に対してのことなので、他の種類のものについては触れませんが機会があればそのうち書いていこうと思います。

神仏の存在について、姿がわからない・存在を感じないことから半信半疑だったりすることから存在に否定的な考えをもっている人も少なくないと思いますが、なぜそのようになるのか説明していきます。

 

まず、神仏の存在を感じれないとか見れないのは、単に波動や波長が合わないためにこのようなことになるのです。

 

では霊視が出来る人は神仏の存在が見れるのかというと、見れる人は僅かであり見れない人のほうが多いものです。

スピリチュアルの世界には、神仏の存在を題材にしたものだったり毎日のように神仏と関わっているようなブログを散見(さんけん)しますが、そのうちの半分以上は偽りであったり邪霊が神仏に化けたものであるということです。

なぜ、そのようなことが言えるのかというと、前述の波動や波長というものが霊視レベルではクリア出来るものではないということ。

つまり霊視というのは神仏と繋がっているから発揮できるものではなく、過去世で霊視などの霊能力の鍛錬をしたものが、今世でも見えたり見えるようになったほうが多いということです。

たしかに過去世で人の役に立つために頑張って修行してきた人は、今世で霊能力が開花していることもありますが、どうしても人間の世界の煩悩に流されてしまう人、そうではなく現在も能力をお持ちになり神仏と繋がっている人もおられます。

霊能者のなかで煩悩に流されてしまう多くの人は、霊能力の鑑定などをして法外な料金を取ったりするために与えられた能力が霊視程度にとどまり、神仏の姿や存在を感じれなくなるということが普通にあります。

 

この霊能力ですが、スポーツの世界でいわれるアスリート、芸能界でいう歌手や俳優などと同じように過去世での鍛錬が今世に引き継がれたものと同じです。

ですから、今世で何か一生懸命に頑張ってきたものは、来世(次に生まれ変わる時)には、その能力を携えた形で生まれてくるので、何事も無駄ではないということがいえるのです。

 

話が大幅に逸れてしまいましたが、神仏は存在している証拠に私は神仏から霊的な世界の現実を教えてもらったり、(手)印を授かったり、真言を唱えたことも真言を知らないのに除霊や浄霊を行なってきた経緯があります。(いまは真言を唱えています(;゚ロ゚))

一説には自分が贄(にえ)になって霊的な対処が出来たのではないかという話にもなりますが、それならば考えられないような怨念霊との対処で実害が出ていても不思議ではないわけです。

神仏と私たちの波動や波長が違うということもありますが、それ以上に神仏の存在が明らかになってしまうと、それに頼るために人間としての修行(試練を乗り越える)の妨げになることが多々あるために、神仏の存在がわからないということが普通にあります。

 

神仏と繋がる方法①

神仏と繋がるために神社仏閣に足繁く通い、一生懸命に真言を唱えたり、神仏を祀ったりすることが一般的なものと思います。

このようなことが間違っているとは一切思いませんが、せっかくならば神仏ともっと繋がりやすくなれるようにお伝えしていくものです。

 

では本題に入っていきます。

 

神仏と繋がるために一番大切なことは、『心が清浄』であるということ。

清浄とは。。。清らかで穢(けが)れがないこと・煩悩や罪のないことをいいます。

 

そんなん関係ないやろと思う人はスルーして頂いても全然問題ありませんので、各々の判断でいいと思うところだけを参考にすれば良いと思います。

 

心が清浄というのは、波動や波長といったものが上がることに繋がるのです。

それが神仏に近づくための近道であり、繋がりやすくなる方法でもあります。

 

この清浄というものは、演じて出来るものでもなければ心から表れるものですから、今日明日にどうこうできるものではありませんが、日々の積み重ねで変えていけるものです。

人間は社会に惑わされて、損するのは嫌であったり何らかの欲求を発しますが、シンプルに考えていくことも大切なのです。

清浄というものについて説明するのも難しいので次にまいります。

 

神仏と繋がる方法②

『利他愛』の心をもつことは、神仏と繋がるためのとても有効な方法であると考えます。

利他愛とは。。。自分の利益よりも他人の利益を優先することと書き、見返りを求めることなく他の人々に幸せを与えたり手を差し伸べることです。

 

利他愛については、当ブログの他の記事に書いたと思いますが、この利他愛がなぜ神仏と繋がるために関係するのかということを説明していきます。

利他愛がなければ神仏と繋がれないかということはありませんが、より神仏と深くなったり存在を感じれることになるのです。

 

私が経験してきたことからお伝えしますと、次から次へと神仏とのご縁が増えていくのも利他愛からうまれていることは間違いないものと断言できます。

ただ、私の過去世からのものが関係していることも否めないとも考えますが、このようなことは誰にでも行えることなので是非利他愛について考えていただきたいと思います。

この利他愛が、なぜ神仏と繋がるために有効かと申しますと、神仏と同じような考えに沿うことは当然に神仏から目をかけていただけることにもなるのです。もうひとつは

 

最近も、とある権現様とのご縁を授かったことを問うと、「人助けをしているから」とのお言葉を頂いたことがありました。

当然に真言を授かり、いまでは毎日朝晩に唱えさせていただいています。

 

神仏と繋がる方法③

これまでに神仏と繋がるためには、「心が清浄であること」「利他愛を実践すること」と書いてきましたが、もう一つ大切なことは『神仏の存在を確信すること』です。

 

これまで書いてきましたことを念頭に頑張っていましても、存在がわからなくてもよいというなら別ですが、普通は神仏と繋がっているような何かを感じたいものと思います。

神仏の存在がわからないと、どうしても頑張れない人がいたり信心が無駄なものに思えてくるのではないでしょうか。

そもそも、神仏とは存在感が明確なものでも便利屋さんでもありません。

しかし、神仏の言葉は時として必要なときに降りてきているものなので、存在を信じないと有り難いお言葉も逃してしまいかねないことになります。

神仏を信仰していたり信心している人のなかには、そのようなことに半信半疑になってしまって、本当の存在されている意味を逃してしまい途方に暮れるといったこともありましょう。

よくいわれる、「信じるものこそ救われる」のです。

 

おかげさまで、私は神仏を信じているために境遇こそ変わらなくても、まったく孤独を感じることもなければ、霊的なものに恐怖を感じることもありません。

そのうえ、何か問題が出たときに救って頂いたり導きを頂いて感動させられることもしばしばあります。

このようなことも、神仏を信じているからこそ感じれるもので、半信半疑であればただの流れで終わっていたことでしょう。

 

さいごに

このブログ運営も3年を越え、返信対応などを含め転換期に入ったものと捉えています。

この間に神仏との繋がりに一層の確信が出たり御縁を授かったりしていくなかで、方向が自然と変わりつつあると感じています。

 

わたしのなかで神仏という存在の解釈は高級霊であり、神仏以外にも衆生救済なさられている存在は多くいるものです。

ひとりでも多くの人が、自己を見つめ直し霊的な世界が幻想でもなければ身近なものであることに気付かれ、神仏と繋がることによって本来どう生きていくべきかの指針になれば幸いです。

神仏とは言い換えれば自分の心にあり、因果というものを自らが生んで靄(モヤ)をかけているものと理解されたいと願います。

 

それでは、この辺で終わります。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。<(_ _)>

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