死後の世界

孤独死の成仏に供養や墓は必要なのか

これから増え続ける孤独死について、本当のことを知って頂きたくてブログに書くことにしました。無縁仏になれば成仏できるのかできないのか、はたして供養がないと成仏できないのか、墓があったほうが救われるのかなど、将来の疑問や不安について説明させて頂きます。

 

 

無縁仏でも成仏はできるのか

 

 

これを書こうとする前に少し他のサイト様を見てみたのですが、どれも無縁仏についていいことが記されていないなぁというのが正直なところでした。

 

成仏できないとか成仏に相当な時間がかかるといったことや、手を合わせない方がいいとか餓鬼になるから近寄らない方がよいなど色々な説明がされていますが、私は異論をあげさせていただきたいと思います。

 

その前に餓鬼というのは、生前の罪の報い(むくい)で餓鬼道に落ちた者のことで字のごとく常に飢えと渇きに苦しむもので、仏教でいいます六道あるいは三悪道のひとつとされているものです。ガキ大将などのガキは、このあたりが由来のようです。

 

無縁仏といいますと、ひと昔前は戦争や大災害などで供養する人がいなくなった仏のことを言ったと思うのですが、現代はだれもが無縁仏になってもおかしくない状況にきています。

 

そこで無縁仏について説明されているサイトを見てみますと、多くの人が供養がないからとか狭い中に骨を詰め込まれるといったことから、未成仏霊になり成仏できないことを書かれていました。私にもし霊媒体験がなければ、そのようなサイトの説明を完全に鵜呑みにしてしまうだろうなぁと思いました。

 

無縁仏について説明されているなかに、葬儀屋さんやお墓に関連するようなお寺などの関係者が多いことからも、そのような発信の仕方になるのかとも感じます。

 

ところがですよ無縁仏になるから成仏できないのかといいますと、お墓があっても成仏できない霊は多く存在するわけです。それに最近は管理をする人がいなくなったお墓も増え続けていて無縁仏と同じ状況におかれているものも少なくありません。このことからお墓があるから親族がいてるからと安心できないのが現状ということですね。

 

こういった管理されないお墓も無縁仏になります。これからの日本は少子化も加速しており、お墓を継続して管理することができなくなって家系も途絶えていく時代です。そのうえ日本の風習自体が変わってきていて、亡き者への供養というというのも減っていくという時代ですので、無縁仏だから特に問題があるのかというとそこまで意識することはないと思います。

 

これからは亡くなる本人の心構えが成仏を左右するといっても過言ではないかと思います。といいますか、いつの時代も成仏するというのは、本人の問題であることに変わりありません。

 

たしかに葬儀とか供養されている仏と無縁仏とは少し違うものがあるというのは否定できませんが、それはあとで詳しく説明するとしまして無縁仏でも成仏できるというのが、この項での答えです。

 

この成仏について、そのあたりをこれから説明していきたいと思います。

 

 

葬儀の意味

 

 

人は亡くなれば一般的に葬式を行ないますが、無縁仏になりますと自治体による簡易な葬式という形になりまして、簡単にいいますと葬儀屋さんに丸投げ状態になるような状況です。このようなことから起きるのが、多くの葬儀屋さんでは限られた予算内で利益を上げるためにお供え物を模造品に変えたり、ご遺体に対しての扱いを軽視することが多いようです。すべてではありませんが、一般的にいわれているようです。

 

本来の葬式の意味ですが死者を送る儀式のようなものですので、豪華にしたからといって霊的にはまったく意味のないもので、遺族の自己満足やご遺体への想いからお金をかけると思ってよいでしょう。

 

先ほども書きましたように、葬式を豪華にしても質素にしても亡くなった故人に対しては何のメリットもないわけですが、一般的な葬式と簡易に行なった葬式と何が違うのかを、これから説明いたします。

 

私たちが亡くなったときに、まず問題になるのが自分が死んだという自覚が必要になってくるということと、死を受け入れて成仏の道へ進むための気持ちが重要になってくるのです。

 

そこで葬式の必要性が出てくるわけです。一般的な葬式ですと遺族や参列者が泣いてくれたりお別れの儀式をしてくれるのですが、無縁仏になる人たちはひっそりとした形だけの簡易な状況になるために、自分が死んだという自覚が前者と後者であきらかにちがってくることにあります。

 

葬式は一般での簡易でも故人には同じだろうと思われるかもしれませんが、儀式よりも人が参列している方が故人として死を認識しやすいということです。

 

火葬については特別なにも変わらないので、ここでは触れずに先にすすみます。

 

 

お墓について

 

 

これは、おおまかご存知だと思いますが無縁仏になる人は、無縁墓や無縁塚というような所か供養塔などの無縁仏を祀る施設に安置され、無縁の人たちと同じ場所に入るので合祀(他の人と同じ墓に入ること)というかたちになります。

 

よく合祀になると、無縁仏の数が年々増えているために遺骨を粉々にしたり、一部産業廃棄物として処分されてしまうこともあるようですが、結論から申しますと何ら問題はありません。これは管理されていない墓の遺骨も同様に扱われます。

 

無縁仏の墓については、このような流れになるのですが今回は成仏についての話しなので、お墓についてどう判断したらよいのかをこれから説明いたします。

 

これまでお墓について触れた記事にも書いたことがあるのですが、お墓というのは供養する場所であり故人との面会場所のようなものであるということです。

 

よく昔から、お墓参りをしないと先祖の祟りが起きるとか言われていますが、これは他界した先祖などの霊が寂しがって、親族にそれを知らせるためにアクションを起こすような感じです。そのうえ、お墓参りをすることによって先祖の霊との結びつきが強くなるために守ってくれているのは当然ですが、気にかけてくれて生きている者が良い流れに向かうように支援してくれるわけです。

 

このようにお墓の存在は持ちつ持たれつのような関係があるのですが、故人または先祖の霊がお墓にずっといてるかというと、お墓にはいてません。お墓参りに行こうとする者の気持ちや行動が伝わるために、お墓に出向いてきてくれるのです。

 

このようなことから無縁仏となりましても、しっかりとした気持ちがあれば成仏に影響するものではありません。霊は霊としての世界があり、死んでも孤独ということはなく先祖やスピリチュアルでいわれるソウルメイトなる仲間がいてるのです。

 

ただし供養がないということは、現世で味わっている孤独感は死後に霊となっても現世を思い出すと寂しいものはあるかもしれませんね。

 

 

供養について

 

 

よく先祖供養といいますと、お盆やお彼岸を思い浮かべるものですが残された遺族が先祖供養なるものをしてくれると死者の霊は、それを楽しみに地上界(現世に霊となって)に帰ってくるのですが、何らかのかたちで無縁仏になってしまうと誰も供養してくれないので、地上界に誰も供養してくれない寂しさが付きまといます。

 

地上界に戻ってくると、供養があると懐かしい果物や供え物を味わえるのも霊となったものの楽しみでもあるわけです。そのようなことがはっきりと違うので無縁仏になる可能性のある人は、生前のあいだに自分に言い聞かせて霊の世界でやっていく覚悟はあったほうがいいかもしれません。

 

これが餓鬼のことに触れた所以でもあるのです。供養がないに等しいために地上界の食べ物や飲み物にありつけない飢えや渇きがあることから、そういういわれ方をするのです。やはり無縁仏のなかには、そのような存在にちかいものもいてるのです。

 

それをどうすれば解決できるのかといいますと、現世で色々な欲を失くす努力をすることが最善の方法ではないかと思います。これは無縁仏にならなくても大切なことで、そのほかの言い方ですと自己滅却(完全にモノに執着しなくなった心持ち)することは、いま生きている人すべてに重要な課題でもあるのです。

 

 

さいごに

 

 

このように、孤独死で無縁仏になっても問題なく成仏はできますが生きている間に身辺整理も大切ですが、それよりも日々の生活で自己滅却していくことで成仏の道は開かれます。

 

あとは自分が死んでも肉体がなくなるだけで、魂は存在するという認識ができれば霊となって迷わず未成仏霊の期間が少なくて済むように思います。この辺は認識の度合いなど個人差がありますので、あえて思いますという表現にさせていただきました。

 

では、この辺で終わります。

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました<(_ _)>

 

 

 

 

 

 

 

 

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